柴崎友香『星のしるし』を読み終えた。
ファミリーレストラン周辺で起こる(ベランダの男女、隣の席の占い)、そしてスターバックスで起こる(カネのうけわたし、マルチっぽい話)、わけのわからない出来事、ヒーリングや占い、UFOなんかのわけのわからなさが、シャマランや黒沢清のようなものすごい不穏さをかもし出している。それにカツオという人間の存在も、その消え方も不穏すぎる。そして宇宙人の出現がテレビによってあきらかになるのは『サイン』って感じだし。
あとは、人が死ぬこと、この世界から消えることについて、の違和感というか不思議さというか腑に落ちない感じを果絵は祖父の死によって抱えたまま最後までいく。占い師に相談して涙が出そうになっても、彼女は祖父の死についてなにか明確なことを語ってはくれないし、カツオも、そのことについては陳腐なことを言って逃げているように思える。それが、自分は誰にも見られていない、ということに気づく、というか、誰かが自分を見てることを自分が明確に、確かのものとする、ことはできない、ということに気づく、ことによって、……ってこの後が難しい。ここから、この世界はあるが、そこに死者はいない、ということをを理解し涙する、までのつながりがむずかしい。
誰も私を見ていないかもしれない、けど、家族も恋人も同僚も友人もカツオも、絶対何処かにはいて、会うことが出来る。そして、見つめあう(ようなことを)ことができる、はず。だけど祖父とは出来ない。祖父が私の事を見ているだろうか、明確な疑い(って変だが)を持つことは出来ない。それはもう、ヒーリングとか占いとかUFOの世界の話、つまり、カツオが言ったみたいに、人間の知覚ではとらえることの難しい(そしてとらえられる人は限られている)領域の問題になってしまっている。
自分が見ていた人に、見られているように思えても(ジャージの男女、小学生二人組み、電車の中の鳥の目をした女)、それが本当に見ているのかわからない、というのは、怖いし不気味だ。この不気味さは、逆に言えば、この世界がある、自分はこの世界にいる、ということをとりあえず支えてくれている、ように思える。ただ、その相手が、この世界に存在するかどうかわからない、という疑いが出てきちゃうけど。でもとりあえずこの小説は、この世界、の側に踏みとどまっている小説なんじゃないだろうか。だから果絵はヒーリングも占いも一回だけだし、カツオが消えてしまうのもそういう事なんじゃないだろうか。柿原さんや果絵の母親(あの、台所でわけのわからんことをする時の感じは黒沢清だなと思う)が、ちょっと行ってしまっている、のかもしれない世界には行かない、ということ。いるんだかいないんだかよくわからない、じゃなくて、いないものはいない、とすること(逆に、いるものはいる、と認めるしかない、ということなんだけど…宇宙人の、いる感じ…)。
後は、持ち物が部屋に増えていく気味悪さ。他人が部屋に勝手にものを増やしていく(または減らしていく)のが平気な朝陽と、実家が母によって物が増えたり配置が変わったりすることに違和感を感じる果絵。
つくづく気持の悪い小説だった。まがまがしささえ感じる(副社長がらみのことなんて特に、悪意に満ち満ちている)くらいの。
あとはきりちゃんの「さあ、知らんけど」にものすごいリアリティを感じた。