笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』を読み終えた。こないだ読んだ『増補 ネオリベ現代生活批判序説』と問題が深く結び付いていたんでその分さらにおもしろく感じた。あと笙野頼子は読みやすいんだと思う。
後書きではよりはっきりわかりやすく書かれていた。ネオリベに孤立させられた個人(《声をあげるとどうやっても個人ひとりだけで戦うしかないような体制に世の中がいつのまにかなっていたのだった。そして個人だけで戦えば公共性がないとされ、黙殺された。》p69)。
小説ではそのネオリベ市場原理主義者に、(なんでも少女にする、というより少女にしか価値を見出ださない)ロリコンや小説を矮小化し否定する言説を結び付け、というかこれらはすべて同じ原理で動くもの、おんたこであるということをものすごいわかりやすくはっきりと(しかしイメージによって何重にも多角的にも意味を含まされて)描いている。
《国中の人間が自分の、当の本人の生き死にさえよく判らなくなっているのだから。(…)そもそも自分の生き死にがはっきり判っている人や或いはなんとか判ろうとする人こそ、この国の上層部から目の仇にされて次々と死んだり追われたりしているのだから。》(p22-23)人間の生命すらも取り込もうとするネオリベ、というかおんたこ。この小説では彼らは火星人となる。彼らに「労災は適用されなかった」!
《なんでという言葉はもう言うたらあかんのです。「なんで」。それはこの世で一番おんたこさんの嫌う言葉です。おんたこさんしか使うたらいかん言葉です。判りますか。もしも志賀さんが「なんで」という言葉を使いたかったら、そしたら、志賀さん例えば火星人にかんしゃくを起こしたり、知り合いの農家の幼女を誘拐したりした時に言うようにしましょう。それもね、「なんでやったらいかんの」という使い方で使うたらええのどす。そういう時やったらおんたこさんもこの「なんで」という言葉をフェアな使い方と思うて、許してくれますから。》(p57)「なぜ人を殺してはいけないのか」という空虚な質問。しかしあらゆる問題を数珠繋ぎのようにしていけるのはすごい。
「お尻の公共性」「苦悶の表情で教師は血を吐いた。しかしその時になぜかけつもかいた」「『刷毛でやれっ』」とか笑いがあるのも信頼できる。
そしてこの《教室の後方出入り口に立っているのは、真っ黒な空虚の、自己喪失の、―。/くっそきっもち悪い、ぬっらぬらの、べっちょべちょの、ごっしょごしょの、―。/ぐええええ、な群れであった。》(p83-84)のおんたこの実体が始めて出て来るシーンで『ディスコ探偵水曜日』を思い出した。そしてこの二つの小説は似てるなと。未来の世界があり、子供にまつわる商売(子供が商品化される)があり、よくわからない悪意の存在(じゃあディスコの敵もネオリベ、おんたこ(の原理)だったのかも)があり、姿と中身が違うということが起こり(火星人スーツ(この圧倒的なグロテスクさ)と魂のいれかわり)、語り手が魂というか実体のない姿になって時空を超えたりする。