銀座のメゾンエルメスで「Hollow小谷元彦」を見た。
人(の形をしたもの)から、「人性」とでも言えるようなものをどんなに消失させても、そこに人を見てしまうのが大多数の人、だろう。心霊写真のように。
しかしそれらの、「人性」を失いつつ人であることを示すものらも、少し視線をずらすだけで、鑑賞者が位置を変えるだけで、距離をとるだけで、人でないなにものかへと変貌する。とはいえそれは、我々自身の変貌なのだが。それらは、最初から人でないのだ、ある意味で。
どんなにリアルに全身を形作られていたとしても人であるはずがないものを、人として(もしくはそれに「準ずるものとしての」亡霊として)見てしまう。それらには、まるでなにかの輪郭を白くなぞった跡のような「表面」しかなく、そのなにかは存在していない。「中身(なにか)は空っぽ」。そのなにかが、確かに存在したかもしれないと思わせることが、作品に人を「見せている」のかもしれないが。
「人性」が失われていく、ということは、人の、「個」(という境目)が消滅すること、他の人でなさと融解していくことだ。どろどろに溶けたような「手」たちを、コの字になっているメゾンエルメスの、片方の棒にあたる空間(そこには巨大な頭部がある)の、もう一方の棒の空間に向けて在る窓から見ると、それはちょうど壁から生えた手たちを真横から見ていることになるのだけど、それらは一つの白い垂れ下がった塊になってしまっている。
また人型の構造物が分身したように2体ある作品は、個を無くしてしまった存在のようだ。
まぁそう考えていくと、個とは何か、という話になって、それはまた、単数だから個である、とは簡単には規定できないんじゃないか、と、なり、話は終わらない…。
デリダ『死を与える』買った。