中原昌也『待望の短篇は忘却の彼方に』読み終えた。心底痺れてくるような感覚が味わえる。いや、小説にそれを求める人なんていないか。小説だけど、小説ではありえない・起こりえない感覚を味あわせてくれる。
DVDで、ロネ・シェルフィグ17歳の肖像』見た。

つい、『ローラーガールズ・ダイアリー』と対として考えたくもなる。同じ話といっても過言ではないから。同じ年齢だし。
親への反発もあり、家庭外の人間を交流を持つけど、結局彼らに彼女(たち、とあえて言い切ってしまおう)が求めるのは、親の代替としての役割であって、最後には、親の元へ、承認を求めて戻ってくる。彼女たちは孤児にはならない。
だから何だ、ってわけではないんだけど、この一連が、少女のイニシエーションなのだとすれば、なんだか、脱力感がある。わかってんだろそんなこと、という感じ。
映画の中ですら、子供はこういう感じにしか描かれないんだろうな。というか、親、という存在を登場させるときのどうしようもなさ、というか。
もちろん、それでいいんだけどね。現実はそんなもんだし。ただ、ちょっとでも、後ろ向いて舌出す感じがあったら、また違ったんだろうなとは思う。
キャリー・マリガンは、まずその髪型に目がいく。髪をアップにした時も(露わになる首の美しさ…というより可憐さ?)、下ろしている時も、前髪は常に額を被っている。しかし冒頭かに登場した時彼女は、その前髪を中分けにしている。まぁ、お洒落になって気を使うようになっている、ということなんだろうけど、より幼くなっていっているようでもあった。
それからやっぱりあの口元。左右非対称で、片方を軽く歪めて吊り上げているような時が多くある。あのなんとも言えなさはすごい。『ウォール・ストリート』のスクリーンショットで、ゲッコーの娘を演じる彼女の泣きじゃくる表情にもそれが現れていて、いよいよ見に行かないとなぁという気にさせられる(何でかは知らん)。
にしても、教師の家を訪れるくだりは良い。何が、ある人間を支え人生を送らせるのか。高級絵画の存在自体なのか、それを愛する心や知識なのか、という問いが、なんで学校行ってBoringな日々を過ごさなきゃいけないのか、ということにも繋がっている。豊さとはなにか、ということ。(異なる人種を、何も知らない老婦人を)卑屈に・卑下して差別することではない。
雨の降るシーンの不吉さや(イギリスっぽいけど…願わくばざんざん降りじゃくてもよかった)、背中の肩甲骨、少女の悪ふざけ・ふてくされ、…魅力的になっていたとは思う。
ペイトン・リード『イエスマン “YES”は人生のパスワード』もDVDで見た。これは後で。一言いうなら、ズーイー・デシャネル(歌わせちゃってんのがまたね…)だよ。

米澤穂信ふたりの距離の概算』と石井光太『感染宣告 エイズなんだから、抱かれたい』を買って両方とも読み終えたがこれも後で。