トニー・スコットアンストッパブル』を見た。

「失敗」から始まる、失敗にまつわる映画である。誰かの悪意や、陰謀からではない。
それは無論、この事件の発端が、ある職員の失敗だった、ということもあるが、クリス・パイン=ウィルも、デンゼル・ワシントン=フランクも、何らかの(小規模な、ではあるが)失敗を抱えているところからスタートする。
そうして彼らは、大きな失敗=暴走列車を止める過程で、彼ら自身の失敗もまた払拭する。手遅れなんてことはなく、諦めなければ、挽回することは可能だと、フランクはウィルに教え諭す。
ところで、劇中で印象的なシーンがある。列車を止めるために、鉄道会社の上層部が選択した、脱線機を使用するという方法を、フランクは、しつこく、必ず失敗する、と言い続ける。そこには、確固たる理由があるわけでもない。しかし彼は、いざその処置がなされるという段になって、成功する確率は「五分五分だ」と、結局のところ答えてしまう。
このときの「失敗」の連呼は、何を意味するんだろうか。いや、フランク自身の発案した停止方法を正当化するため、と言えばそれまでなんだが。どうも妙に感じる。
そのことは置いとくとして、もうひとつ。この映画には、(当然のことながら・相も変わらず…どちらでも構わないのだけど)回想はない。男二人が、操縦室の中で、互いの過去を語り合う。しかもそれは、事件の進行を映画的に少しも妨げることなく、本部との通信を行いながら、である。特にウィルの手酷い失敗は、彼自身の簡潔な語りによって説明されしつくしてしまう。
気になるのは二つ。まず一つ目は、この時点で、操縦席はさながら告解室のようになっている、ということ。そうなってくると『サブウェイ123 激突』との関連を探りたくなってくる。
二つ目は、この語りの簡略化が、いささか異常じゃないか、ということ。フランクの家族の話や、ラストの関係者のその後の説明に至るまで、本来そこにあるはずのドラマは、単純な語りとシーン(1カット)によって提示されるだけだ。合間のテレビの描写も、やりすぎなんじゃないかというくらい、説明に利用されている。その結果が、99分という、やはり近年の映画の中では短い上映時間の実現につながっているわけだけれど。
画について。操縦席のシーンは、カメラが中に入るよりはむしろ、走行している、ところを外の窓から、二人を移すことが多かった。鉄道会社のオフィスも、管制室も、窓ガラスを一枚はさんで、もしくはその周囲を半円を描くように、登場人物をとらえている。
一つのカットで、カメラが静止することはほとんどなかった。
あと、黄色いベストのくだりも忘れられない。あそこでなんだかぞくっとした。やっぱり、黄色、じゃないんだろうな。あそこでさらに赤いチェックのシャツになってくれたら…。
にしても、やり直しはできる、ということにめちゃくちゃ感動してしまった。。

で、ドリュー・バリモアローラーガールズ・ダイアリー』をDVDで見た。

誰しもが思うことだろうが、エレン・ペイジ、くそやばし。あの下くちびるをかみながらのはにかみ笑顔とか、今にも泣きそうなときの不安定な表情、とぼとぼと以上にでかい鞄(なんであれ…)の重みに耐えながら歩く姿、…一つ一つの動きがたまらなく胸に迫って来る。こういう演技ができる人がハリウッドにいる、というのは素晴らしいことだ。
何といっていいかわからないけど、この映画をみるとわかる、あの感じ、としか言いようがない、印象の残り方がそんな感じだった。バイト先でのダンス、プールの中でのキス、食べ物の投げ合い、…いやでも、こうして考えてくと、極めて既視感のあるというか、こうきたら当然こうくるだろ、という感じのシーンの連続で、母親との確執から和解、親友の存在、新たな友情、つまりここには、当たり前のものしかなく、でも、その当たり前っぷりが異様に突き抜けている。完成度が高い、とでもいおうか。
真夜中のセブンイレブンや、でっかい豚(その上に座るエレン・ペイジ!)、看板、キャンピングカー、などなど。
ボルヘス『永遠の歴史』、中原昌也『待望の短編は忘却の彼方に』買った。中原昌也の呪詛っぷりがすごい。違う短編でも、同一の不快感に満ち満ちている。