宮崎吾郎コクリコ坂から』見た。

とりあえず、「水沼殿のお達し」はキラーフレーズだね…。しびれるわ。
船、自転車、バイク、走る、飛ぶ、…こういう運動は登場するのだけど、どうも抑圧されてる、というか。いや描かれているんだけど、野放図ではない。
いや、しょうがない。あの絵で登場人物が動いている以上はどうしても…おばあさんのしわの書き込みのなさとかが気になってしまう。つまり、表情の、顔の筋肉の動きのこと。
死者である父親への交信手段としての信号旗へ、反応していた風間さんを、メルが、「そのように」捉えて好きになったのは物語的に必然(思えば、水に飛び込む姿から始まり、それは海で死んだ父親のイメージと重なり、――だからこそすくい上げ――、その後旗を降ろす行為に重なるように風間さんの飛び降りる姿が呼び起こされる、のならばますます旗は上げられなければならなくなった)なのだけど、その彼の反応は見えていなかった…というか、旗を上げている限り、気づくこと、見ることはできなかった。それは、下宿の建物の構造的な問題だった。もし、松崎家が以前住んでいたアパートのように物干し台で旗を掲げられたならば、見えたはずだろうけど。
同じ年代に作られた二つの建物(コクリコ荘とカルチェラタン)の、前者から後者への移行(「コクリコ坂からカルチェラタンへ)、がなされることでメルは、おそらく自分でも気づいていない、重苦しい何か(それは祖母と向き合うメルの様子から推察されうる)から解き放たれる、そうして、彼と彼女は向かい合える(船の存在を知らせるひろちゃんや、下宿を出て風間さんとの関係を後押しする北斗さん(石田ゆり子うめぇ)、といった人物も示唆的ではある。しかしそれにしても、ひろちゃんはかなり特徴的だった。絵画とかあの造形とか唯一食事準備の手伝いをしてた、とか)、はず、だったのだが、ここでも、彼ら以前から存在していたもの(この場合は、父親だ)が邪魔をする、がしかし、それでも…という展開には、変態性と力が在る、のだけど、やっぱり、というか、頼りにするのも、真実を詳らかにするのも結局大人(「徳丸書店」!って徳間のことかよ)だということで、あんなおやじにがはがは笑われながら認められて嬉しがってどうする、哲研のやつとか、水沼殿も、最後の代替案としての新カルチェラタン(ではなくなってしまうよね)建設に歓喜する生徒たちも。大きいものに寄りかかるでもなく、彼らの力に押し潰されるでもない、第三の道、というのが提示されず、メルは結局下宿に戻り旗を上げる。無論、含む意味合いは異なる、と言いたいのだろうけど。
とまぁ、すげぇどうでもいいことを考えてしまった。あ、目玉焼きやアジフライやコロッケはうまそうだった。
もっと言えば要するに、長澤まさみじゃあメルというキャラをおいこめねぇなぁ、ってことだね…。水沼殿×風間さんの方が萌えるわ。
ラーメン屋でGalileo Galileiの「スワン」流れて動揺/あやまんJAPANとオリラジ慎吾のやつ、気がつくと見てる。「僕チャラメガネ/美人なチャンネーには目がねぇ」のラインやばい/『桜蘭高校ホスト部』のドラマ、きびしいねぇ。でも大東くんはかっこいい/『輪るピングドラム』3話見た。ますますわけわからん。おもしろいけど/『それでも、生きてゆく』の満島ひかりの演技はんぱない/