残念さや、ぼんくらっぷり、童貞、を、そのまま肯定する言説は、変だ。今そうした表現を発信する残念でぼんくらな童貞(以下ZBD)、たちが、かつてZBDな少年少女だった時、彼らを支えた表現(者)は、決してZBDのマインドをむき出しにはしていなかったはずで、そうしたものから、また時にはそんなつもり欠片もないものから、自他を救う知恵や精神を読みといて吸収することに意味があるし、優れた先人たちが直接性を避けたのは、ZBDを社会に位置づけるのを拒んだからで(この文脈で、ヒャダインのあの曲を評価したい。あれは色々ぎりぎりだから)、なぜならその行為が、ZBDを否定することだからだ。でも位置づけようとしてしまうのも理解できる。ZBDは、自らを過多に過剰に語らずにはいられないから/『日常』見て、「LL教室」という単語を久しぶりに思い出した。しかしこののりで「それ町」アニメにしてるんなら、傑作なんじゃないか、見てないけど。/般若の新譜とか、タイラー・ザ・クリエイターとか欲しい/