ジョナサン・デミレイチェルの結婚』をDVDで見た。

圧倒的な気まずざ、居た堪れなさ、が現れていて、見ているのがつらいほどだった。
結局キムは、母親ともまともに話が出来なかったし、施設にまた戻るし(退院ではなくて、一時帰宅だった、という軽い衝撃!そんなこと言ってなかったよな…いやもしかすると、自ら戻ることを選んだのかもしれない)、レイチェルの結婚を通して、何か劇的な変化・進化、があったわけでもない。おそらくあの家族にとっては、以前体験しているような、――ともすると若干激しかったかもしれないが、話を聴いている限り、過去のやばい事件の際のほうがよっぽど深刻な事態になっていたっぽい――、言い争いや事件が起こっているに過ぎなかったんじゃないだろうか。だからといって、そのことによる痛みや苦しみが軽減するというわけでもなく、その度に、心を傷つけ、深く沈思黙考せざるをえないのが、その「重さ」「湿っぽさ」が、家族、の問題であるのだけれど。
この一つのイベントの描き方、さまざまな人々が出入りして、最初はだれがだれの知り合いかわからないのだけれど、いくつかのパーティーを共に過ごし、時間が流れていくにつれて、その人となりが多少なりともわかってくるところ、や、他人と家族の入り混じる部分の軽い緊迫感や、でもそれで救われるところもあったり、とか、
がすばらしくて涙した。家の構造の見せ方、ぐるぐる歩き回って話したり、鏡で向かいあったり、窓から見下ろす庭の風景、などなど、もよかった。
あとは、家族の視線の交わしあい、もね…。それにしても、あのPOV的な撮影はなんだったのだろうか。別に必然性はないように思うが、…といいつつ、粗めのカットの変わり、や、ぶれて不安定なカメラワークの持つ何か、というのは伝わってきたけれど。
K.A.N.T.A『ROYAL NEW STANDARD』買って聴く。あと、ねむようこ『ペンとチョコレート』全2巻買って読み終えた。最後のあたりの展開が良いね。最終話を、視点を変えて描くところも、慎み深さを感じた。
宮崎吾朗監督のインタビューで、宮崎駿的なアニメーションの「動き」を意図的に落とした(でもコロッケ買いに行くくだりは残ってしまった)というのを読んで、さもありなん、と思った。