ジョン・ファヴローザスーラ』をDVDで見た。

家の(もしくは家と)空間についての映画。
狭い空間(室内エレベーター、暖炉の中)に入ることで危機を打開する。
(エレベーターと密接な関係を持ってこの映画で描かれる)地下室という子供にとっての恐怖の対象が、そのままその恐怖を肥大化させたかのように、敵宇宙人の工場に変貌してしまう。その空間構造はわけのわからないことになっている。
家の外部の、宇宙空間との関係性。つばは丸くなるが、ソファは燃える(なんて奇妙な画だ!)。
こうして考えると、宇宙に家ごと放り出されたことで、空間が歪んでしまったみたいだ。

なぜ姉と兄がザスーラブラックホールに吸い込まれ、弟だけが取り残されたのか。そうして地球に戻ってきた時、弟に対して兄と姉は、同じ態度をとっているようだ。「ゲームに(ついて)触れるな」と。
そして、ついには母は登場しない。ぎりぎりまで制限された登場人物の数。並行世界の弟は、元の世界の彼と同じ姿で登場する。いやむろん、成長していないから、という理由なのだけれど、しかし。
ティム・ロビンス演じる父も謎である。ぼろ家、を、みんなの家にしようとした、本当の理由とは。彼は、ゲームの存在を知らなかったのか。
この映画は、明確に家族の問題、をモチーフとしているのは間違いないのだけれど(あったかもしれない別の道が、家族の喪失という形で描かれているのだし)、その家族の描き方が奇妙だ。姉の登場の仕方も、まるで、その瞬間まで存在しなかったかのように、唐突だ。もちろん、そうした人物登場の(驚きを起こす)表現は、別段珍しいものではないかもしれない。

東浩紀『一般意志2.0』が出てた。今読んでる本を読み終えられたら買いたい/とはいえ清水博『生命知としての場の論理柳生新陰流に見る共創の理』はもういいかな、同じことが繰り返し書かれているし、もうわかったので/新宮一成夢分析』と、西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』買って、前者を読みだして、文章の濃厚さに感動しながら、カフカ『夢・アフォリズム・詩』がまだ途中だったな、と思い手に取った。が、やめてそれより先に、高橋悠治カフカ/夜の時間―― メモ・ランダム』だと思い、読み始める/とにかく震える。この本はすごすぎる。充実している(密度が高い)。何が(何の)?と言われると困るが/その何物かは、「途中」さ、だ。書き終えられず、ひたすら開ききっている/つくづく、小説は書けない、と思う。深沢七郎カフカの後でなんて。彼らの小説がこの世界で生み出されただけで、満たされているんじゃないか/つまり新しさ、別種のディスクール(アウトブリード)を、小説の一行目から書けなければ、書かなくてもよい/でも、なんとなくだけど、ジョイスナボコフプルースト、は無理でも、カフカ、は大丈夫そうな気がする/最初は、高橋悠治はすごい、カフカという存在から何かを始めるなんて、と思ったが、カフカはそれが出来てしまう、それへといざなう作家かもしれない、とも思った/だからこそ『海辺のカフカ』なんて。お前が言うな/軽いことは好きだが、軽薄なのは嫌いだ/当然重いこと、重厚なことのほうがもっと嫌いだ(昔はそうでもなかったけれど、今は)。こと小説でも、映画でも/