クリント・イーストウッドJ・エドガー』見た。

ある人物を調査し、捜査し、機密情報をつかみ、その思想や発言や、プライベートな事象、あらゆる個人情報を把握し、それらを集積し、データベース化する。
それはつまり、ある個人に対する、徹底的な承認行為であるといえる。その存在を受け容れなくば、対象への否定的な感情も成立しえない。
一方で、フーバーは自らの承認にもがき苦しんでいるように見える。ありのままではいられず、自身を改造していく、――それは自分を偽ること、だろう、悲しいことだけれど――、ことで生きてゆく。そのまま、時間・歴史を重ねていくことが、過去を偽っていくことになる。
そして、ここからがこの映画、の異常な部分なのだけれど、図らずも承認した他者のイメージ、によって、フーバー自身が語られてしまう。ケネディの盗聴テープ、ルーズベルト大統領の恋文、キング牧師のスキャンダル、によって。フーバーにとって唾棄すべき他者の醜い事実(しかしだからこそ利用価値のある情報)が、彼自身を現わしてしまう。しかも、自ら語る歴史は虚偽であるがゆえに、異常性がさらに際立つ。
ところで先週、吉本光宏『陰謀のスペクタクル 〈覚醒〉をめぐる映画論的考察』という自分の興味にどんぴしゃな本(というか、「陰謀(論)」と映画、という主題自体が思いつかなかったのがくやしいくらい)を買い、読んでいるのだけれど、それに、こういう一節が出て来る。
《映画によって陰謀という主題が幾度となく反復されてきたのにはさまざまな理由が考えられるが、その大きな一つは、直接把握することができないものの存在を暫定的に可視化したり、あるいは間接的に暗示したりしようとする目的のために、陰謀という形象が非常に役に立つということだろう。》(p68)
まず、映画、というものが、見ること、を描くものである、であり、だからこそそこで、見えないものを見えるようにすること、見えないものを別のものを見ることで・見せることで表現すること、といった、見ること、にまつわる現象と親和性が高く、この現象を、言葉を尽くす(この文章のように)ことで発生させるではなく登場させるにはどうしたら、という結果に、陰謀論にまつわる映画、というものがたちあがって来る。
では、『J・エドガー』はどうか。リンドバーグ愛児誘拐事件、ケネディ大統領暗殺、といった事件が登場するにも関わらず、印象として、陰謀論映画を回避しているように感じられる(『チェンジリング』も『ヒアアフター』も『ミスティック・リバー』も、モチーフは陰謀と結び付きやすいものでありながら、決してそうなっていないのではないか)。なぜか。
すごく単純な考え方、言い方を選択してしまえば、すべて、見えてしまっている、からではないだそうか。見えたうえで、見せたうえで、なお、解釈しきれない不気味さを残すのが、イーストウッドだ、と(端的に言えば、真犯人は別にいる、と、陰謀の形ではなく、表現している)。