バリー・ソネンフェルドメン・イン・ブラック3』見た。

いやーむずかしいな…。おもしろかった、と一言で済ましてしまえばよいのだけれど、そうもいかない映画だった。
このシリーズ、は思い返してみると、エージェントKの過去=記憶にまつわる物語であったと言える。1作目は、ある意味、Kが彼自身の記憶を「失わせる」までの話(そうするための後継者探し)だし、2は言わずもがな、Kの記憶が事件解決の重要な要因だった(失ったはずの記憶を取り戻し、戻って来る)。そして今作は、その傾向が最も色濃いのだが(何せそのまま過去への遡行が描かれるのだから)、今までとは異なるのは、今回Kの過去を探っていくことが、まるでブーメランが帰って来るように、その探索者であるエージェントJのそれに、めぐりあってしまうということだろう。(まぁ、そんなこと、タイムトラベルがモチーフという時点で、わかることなんだけど)
1969年7月16日、という時間を、まず、エージェントKに何かが起こった断絶点(「あんたに何が起こった?」「まだ何も起こってないな」というやり取りが象徴的に繰り返される)として、また、ボグロダイト星人ボリスとの最終対決地点(地球の最終防衛点)として描出し、そして、ある軍人の悲劇的な死と、J自身の過去、そしてKとの関係の因縁の発祥の時としても存在させている。おまけに何よりも、この日付が、米国歴史的にも、事実として重要である、というんだから、この集約させ具合はアメリカ映画だな、と思わざるを得ない。
もう一つ、バディ物であるはずのこの3部作は常に、JとKの分断が現れている、ということ。物理的=空間的にも、心理的にも、執拗に、分かれての闘いを強いられている印象がある。3ではついに、まるで、位相が異なる空間同士の場面が同時に見られている(!)かのように(発射台を軸として!)、2人は同一の敵と別々に最終決戦に挑んでいた。
そして、かなり強調し表現されていたこの映画の偽史的性格。アポロ11号や、ウォーホル、レディー・ガガやかつてのMJの登場などもまたそうだろう(都市伝説の利用)。
記憶=過去=歴史の改竄=偽史を特徴として(映画外との接続点として)持ち合わせている今シリーズだが、その映画内での行動原則は、あくまで、作品内の記憶=過去=歴史の強度に従っている(経験の強さ、が語られることも多い…がゆえに古参のエージェントKの重要性が際立つ)。『3』は、その強度の改竄という事件が起こっている。
つまり、作品=映画外と作品=映画内の、それぞれの「事実」との関係性がパラレルになっている。お互いがお互いを皮肉っているかのようだ。
ここでさらに興味深いのは、グリフィンというエイリアンの存在で、彼によって、すべての時間・事件・未来・出来事は、相対的なものになり、どれも起こりうるものであり、起こり得ないものであり、起こってしまったものであり、また、起こらなかったものである。この性質・能力は、シリーズ毎回のラストの、世界観の変貌を起こさせるものだが、それだけでなく、彼の存在もまた、偽史的設定と同類的に、映画外への別な形での接続点、フィクションとノンフィクション、の相対化として機能している。
ある一点、もしくは一線を軸としてカメラが回転し、2人を画面にとらえる、いうバリー・ソネンフェルド節というのか、『メン・イン・ブラック』特有のカメラワークがしびれたし(こんなんに感動するようになってしまった…というのもシリーズの強みかも)、落下するJとKを最後まで映し出していたのは、良かった(ところどころの合成のちゃちさも愛嬌あった)。