CBSの新しいEPでて、かっこよいのでうれしい/ARATAと窪塚の共演、ってあがるわぁ、ある世代にとっては、だけど/今日は講習受けに府中試験場に行った…シュミレーターで酔った…/
一昨昨日ライアン・ジョンソンLOOPER/ルーパー』見た。

まぁ完全なネタバレになるのだけれど。
ラストは、サラが超能力で引き金を止め、その息子を守る熱意に折れたオールド・ジョーが銃を下ろすと、彼の姿が消える、ってのがよかったんじゃないだろうか。もっとあいまいなおわりかたならば、オールド・ジョーが、撃てなかった後、シドが入って行った方向とは逆のとうもろこし畑に入っていく。それとすれ違うように、サラに駆け寄る、ヤング・ジョー。そこにシドも戻ってきて、助かったことを喜ぶ3人。その直後、銃声が聞こえる。畑の中、銃が落ちている。そこにオールド・ジョーの姿はどこにもない。…みたいな。
そもそも、この映画も、この母子のくだりからスタートすべきだし、そうしたかったんじゃないだろうか。
ある空気を漂わせ、何か秘密を抱えながら、とうもろこし畑にかこまれた古びた家に住む、母と息子の元に、正体不明の男がやってきて…という、極めて古典的な設定であるとともに、スティーブン・キングテイストのSFでもある(異能力が発動する時の切り取り方、映さなさ)ストーリーが中盤から展開されていくのだけれど、その暮らしぶりの描写や、エミリー・ブラント演じるシングルマザーの造形、あまりにもぜい弱なその一軒家を包む闇、差し込む夕日に照らされる人々、といった映像描写、周囲が見えないほど背の高い草をかき分けていく時の不穏さ、唐突なまでの女と男の交流、を支えてしまう子供の造るおもちゃの通信装置――それはとても弱弱しく、光り音をたてる――、といったものは、30年後の、ジョーが過ごす中国での穏やかな日々(なんでシャツ脱がないの?とは思ったけど)と呼応し、ソリッドなSF描写、や、アクション、暴力描写(中国人妻の殺され方の単調さ…)、CGの使い方のはまってなさに相対して、それは美しく、幻想的なまでに平穏ですらある。
劇場で、『AKIRA』が…みたいなこと言ってた人がいたけど、いや、『童夢』だろ。そして、このストーリーならば、ブルース・ウィリス召喚は当然。『12モンキーズ』。
こうして、エミリー・ブラント詣では続く…。

日本未公開作品も観ないと…。

最高の離婚』第1回見た。

作中の、尾野真千子演じる結夏が、月が大きく見える、と言ったことに対する、瑛太演じる光生のセリフ。
「月は大きくならない」「対象物による目の錯覚」
さらっと出て来るこういうセリフが、このドラマで描かれることの一面を確かに表現していないだろうか。
自分以外の人間、他者、それは恋人であったり妻であったり夫であったりするのだけれど、その存在を、どれほど理解することが出来るのか。
可能かどうか、ではなく、しようと志向できるか、という問題なのかもしれない、端から完璧にはできるわけがないのだから。いかに近づこうと出来るか、ということ。
しかし、なぜ、近づきたいと思えるのだろうか。
気になるのは、光生には動物、結夏には富士山、とそれぞれ、自らの気持ちを仮託する、人間ではないものの存在、があるということ。
演出がすばらしい…。猫を何度もテーブルから下ろす、元カノとの敬語トーク、浮気している夫(?)にあわないような不自然な行動(しかし光生は気付かない…)、…など。もしかして山田太一の娘か?…しらべたらやっぱそうだった。
中目がばんばん出まくって、なんかうずうずしてくる。川と橋を使った空間の捉え方もすばらしい。すげーロケ地を巡りたくなってくる。

たまこまーけっと』も見始めた。

これは、深夜帯のアニメなのだけれど、例えば『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』、藤子不二雄諸作品、に通ずる、つまり、一つの限定された地域(それつまり「町」という表記がふさわしい)を舞台にした、さまざまな人々(年齢、性別、などが異なる…それは当然だ、だって「町」なのだから)の会話、動き、やりとりを描き、しかもそこに、在り得ない異物(すぐに思いつくのは、Q太郎や、グーグーガンモ)を混入させ、笑いを起こし(おそらく感動も)物語を駆動させる、という、まさに日本の「王道」の作品となっている。
それでも、女子高生同士の会話になると、だれるというか、興味がそがれる。なぜ『けいおん!』がしっくりこないのか、あらためてわかった気がした。別に男がでないから、というわけじゃなかったんだ。この多様感が必要。