アルフォンソ・キュアロンゼロ・グラビティIMAX 3Dで見た。


手に汗にぎりすぎて、指先しわしわになった。酔いはしなかったけど。90分、そんなこと滅多にないのだがすごく長く感じた。この作品が、時がたち、数あるSFの一つとなるのか、それが信じられない、ある種孤立した映画(いや無論、言うまでもなく、『アポロ13』とか『ライトスタッフ』とか2001年とか、あるんすけど、そういうことでもなくて…)。
宇宙船は胎内であり告解室である。宇宙から地球へ(外から内へ)、着水し沈んだ宇宙船から抜け出し泳いで岸辺へ這い上がり四つん這いから泥をつかんで立ち上がって裸足で歩き出す(内から外へ)、一連の帰還のシーンには、誕生・生物の進化・再誕(イエスの復活、だけではなく、生まれなおすこと・生まれ変わることーー一度も祈ったことのない人間が信仰を得る?)のイメージが重ねられる。
(…とかっていうの、まーどーでもいいんですが、一応)
本当に、狂気的な、異常な映画なんだけど、それは、異常な環境が舞台となって要請している部分がある。
まず、「LIFE IN SPACE IS IMPOSSIBLE」であるからして、基本的には生きてはいられない、という圧倒的な縛りを与えられる空間は、もはや死の世界、死後の世界(自分が、次の瞬間には、確かに死ぬ、とわかってしまう、という体験)。
そして、宇宙(重力のある地上と対比される)だからこそ成立させられてしまうカメラワークとワンカット。我々は、人間は、究極のフィクションにおいても、地球のルールに支配されているというのを逆説的に表している。
これ、サンドラ・ブロックのあの「感じ」(悪態をつく時・娘の死を語る時・機械に八つ当たりする時、の妙なドライっぽさ)、極限でも余裕のある、最高に頼りになる男のジョージ・クルーニー、のキャスティングによって映画の感触が決定されている節があるので、有り得た別の組み合わせ、例えば、アンジーと社長、とかだったら、全然別物になっていた気がする。個人的に、ケイト・ブランシェットとかいいんじゃないかと思った。
コワルスキー中尉の三度目の登場、という現象によって、すべてが疑わしくなる。「本当に生還したのか?」という問い。思えば、二度目の時のあまりの都合の良さも不思議といえばそうだ。さながら主人公を導く天使のこどき存在。
ラストのカット、あ、ルベツキ(の画)だ、ってわかる。今度はさすがにアカデミー賞獲るんでないか。
中国の宇宙ステーション入ってからの、ラケットとピンポン、謎の古銭(ナットかと思いきや和同開珎?)、挙句コクピットの中国語表記は、ほんとなのか、って思ってしまう(そういうのは英語なんじゃないのか、っていう)。ま、瑣末なことですわ。


フライング・ロータスの新しいミクステ、よいのだけど、聴いていて眠くなった。聴きながら、漸く『千のプラトー』、道徳の地質学読み終わってほっとしつつ、先へ進む。


ジャン・ルノワール『わが父ルノワール』読み出してひたすらにやにやしてしまった。