テイラー・シェリダン『ウインド・リバー』


この映画は、2つの顔によって挟まれている。


冒頭から矢継ぎ早に現れる「死体」たち。その後も、本作では戦争もテロも猟奇殺人も起こらないのだが、最終的には数々の死体が登場する。そしてそのなかで唯一、我々観客がたっぷりと時間をかけて「死に顔」を見ることになるのはある女性だ。それはこの映画で最初の、「人間の」死体だ。
なぜ彼女の顔だけが、我々の前に表れなければならなかったのか。この問いへの、ある種の回答が、映画の終盤に描かれる。それが、死んでないにもかかわらず死化粧を施したある人物の顔(death mask)だ。
この2つの顔が通じ合い、重なり合う。誰にも看取られることなく死を迎えてしまった女性の代わりとして、その死を深く悼む男性の顔が現れる。そのことで、雪に埋もれ、凍って、目を見開いて息絶えた死者の姿(と顔)が、惨たらしいだけのものではなくなる。
たとえ死に際の状況がどうであれ、遅くなろうともきちんと存在を尊ばれ、丁寧に受け入れられ、悼まれる死を描くために必要な演出として、反復されるdeath maskはあるのではないかと思う。
それは、寒々しさを感じさせる獣たちの死(しかし彼らもまた尊ばれる存在であることは、その死を見届ける者の振る舞いでわかる)とも、最後に待ち構える凄惨な制裁によって顔を血だらけにする「哀れ」な男の死とも異なるということを示している。


そして、その2つの顔の間を繋ぐものもまた、2つある。


1つは、ジェレミー・レナー演じる「ハンター」ランバートの迷いの無い挙動と視線である。
今作には、アメリカ映画に必ずあると言ってもいい車中での会話シーンが無い(と言いながら実は、1つだけ変則的な車中の会話シーンがあるんだけど、これは『ボーダー・ライン』見てる人ならニッコリするものです。テイラー・シェリダンの作家性でしょうか。『最後の追跡』はどうなんでしょう……。あとちなみにあの人の出演――って伏せなくてもいいのかもな。公式サイトにも出てるから――にも思わずニッコリです)。なぜなら登場する主要な人物は皆1人ずつ自分の車に乗って移動するから。乗り合うものとしてスノーモービルが登場するが、そこで会話など到底できない。会話できるほどゆっくり走れば、ランバートも実際述べる通り、吹雪に埋もれてしまうことになるだろう。
もちろん、車から降りての野外での会話も、天候や寒さによって困難なものでしかなく、ではそこから室内に近づいた玄関というフィールドではどうかといえば、異なる力がぶつかり合い不穏さが漂い、争いや暴力を発動してしまうことになる。
そしてその困難さを解消し、不安定さを埋め、不均衡さを平定するのは、ランバートのスピードと物言わぬ視線と銃弾だ。象徴的なのは、ほぼ唯一と言っていいサスペンス的シーンである石油掘削場の監視員たちとの一連の攻防とその結末だろう(しかし、ここの演出だけを見ても――「左に立て!」や、無線から「離れろ!」のシンプルさとスピード感、"これでいい"という強い意志を感じた――テイラー・シェリダンのただならないセンスを感じた)。


では、野外でも玄関でもない、室内はどうだろうか。そこを「担当」するのは、もう一人の主人公、もう1つの繋ぎだ。
エリザベス・オルセン演じるFBI捜査官ジェーンは本作の中で、ある時は、この映画には登場しない若い女性(彼女について細かく語られることはないが、その服を手渡して少ない言葉を発する彼女の母親の描写からして、何らかの事情があると類推してもよいのではないか……)の服を身にまとい、またある時は、いささかバランスを欠いたといえる長い(主体が不在である奇妙な)回想シーンの編集によって事件の被害者の女性と重なり合い、そして終盤の、おそらく今作で初めてといえる気軽で微笑ましいやり取りによってランバートの娘に(本編全体を通して、でもあるが)遂に成り代わることになるだろう(娘の代わりに父の慰めを受け入れる)。彼女は全編にわたって、不在の娘たちの代理として行動している(そもそも彼女も、本来存在する保留地に詳しい人間の代理としてやってきた風である)。そして彼女という代理人が、室内に侵入することで、人々の感情や欲望とそれに伴う言動がさらけ出されるが、それを彼女は真に理解することはできない。だがそうであるがゆえに(非当事者であるがゆえに)、彼女だけが室内で行動し会話することが許されているのではないかと思う。
最後には、被害者の女性のある行動について「真摯」に「驚く」こと(なぜそれができるかといえば、彼女が女性の代理となりえたから)で、彼女は、代理ではなく彼女自身として、「生き延びる」(それを「成長」と言い換えてもいいかもしれないし、当事者となった、と言えるかもしれない)。


当然本作からは、『スリー・ビルボード』を思い出してしまうわけで。欠損は決して回復しないこと、制裁を「ずれる」しかない(真の対象を裁くことなどできない)こと。
では、エンドクレジットにはある人物の名前とともにはっきりと「THE WEINSTEIN COMPANY」という文字が映し出されること(この疑問は、決してこの映画だけのことではないが……)はどういうことか?なぜ、この映画のある登場人物は、自分のある行為を「明言」させられるのか?しかもそれを、よりによって「男らしく」言うようにと半ば強要されるのだけれど、それは一体なんなのか?

佐藤信介『BLEACH』


シネスコで、町の全景や、屋上の空含めた画などがとてもよく、それを見せたいがためか、登場人物もやたらと屋上に行く。自由が丘っぽい最後のバスロータリーのシーンも、左右に広く人物や物を動かしていて画がキマっていた。
そしてとにかく、説明が最小限なのが好感持った。最近の映画にありがちな冒頭のナレーションとテロップの説明とかもないし、作中人物の異能力の仕組みも解説なく使われる。でもそれでいい。原作知ってる人は言わずもがな、知らない人でもそういうもんだと思って見るわけで。
さらに、杉咲花さん、完全にできあがりすぎている。極まりまくった虚構度の高さ(かっこよさ、外連味)と、それでもなおこちらに伝わってくる圧倒的リアリティがすごい。この人はたしかにこの世に存在しこのように考え発言し行動・運動すると強く感じる。そんな彼女がやたらめったら動き回る、異様に充実した特訓シーンに、特訓映画ブームの機運高まってきたのでは…?と思った(サンプル数少なすぎですが)。ほとんど今作では描かれなかった、実際に死神を代行する描写の代わり(代行!)なんだろうけども。

しかしあれほどいくつもチャンスがありながら(というか自分も、今作品を見てあらためて気づいたんだけど)全くと言っていいほどホラーではなかったの、そのすっぱりと切り捨てた潔さが興味深い(原作も初期はホラーみがあったよな)。
例えば、不気味な少女が登場し、彼女からさらに巨大な怪物が現れるというの、いかようにも見せ方はあったと思うんだけど、恐怖や気持ち悪さを必要以上にあおらない(例えば音響効果とか、映像的なエフェクトとか)描写になっていたように感じた。部屋の幽霊の登場や、一護の回想のカットの恐怖ではなくむしろ幻想的な雰囲気とか。
そもそも幽霊を映画に登場させることに全く恐れがない…って言い方が正しいかわからんが、躊躇がないって感じがする。…と考えて、そもそもこの作品での幽霊が、恐れる者として、人間にとって完全に他者として描かれてないからだな(人間の延長線上にいる)と気づいた。


それにしても恋次白哉の今作品での言動(原作でもあそこまでしてたか?と考えるとあそこまでではなかったかなーという気がする)、人間への差別的思想は、原作が実は内包していた血統主義(一護はなるべくして死神になった)を強調することになったと言える。ならルキアの出自についても…とは思うけどそれは次か。あと雨竜の口ぶりもそうだしね(あいつはもともとそうか)。


あと、別に欠点ではないが、気になったのは、制服が似合ってる似合ってないの次元を超えている真野ちゃん(だがそれにいささかの問題もないのですが)、戦闘シーンで流れるミクスチャーロックのセンスの久保先生っぽさ(原作準拠?)、今作の中でも最大級に虚構度の高いキャラクターである(だからこそ演じるのも扱うのもかなり難しい)白哉の登場のさせ方(一護の前に初めて現れる場所の抜けた感じ――恋次はまあまあカッコいい場所だったのに――、ロータリーに出てくる時の背景の看板)かなと。

リチャード・リンクレイター『30年後の同窓会』


リンクレイター、あんたって人は……つくづく良い映画を撮りますね〜そしていささかもぶれることなく反米の映画作家であると。ただ、今作はその反米っぷりがあまりにもあからさま、直接的なのに少し動揺した(『6才のボク〜』の時の立て看板も露骨ではあったけど)。
しかし、リンクレイターの映画において、「否定」の言動がそのまま機能することはなく、多くの登場人物たちは否定を口にしながらも結果的には肯定の身振りをとってしまう。帰るといいつつ帰らない、やらないといいつつやる、買わないといいつつ買う、聞かないといいつつ聞く、言わないといいつつ言う、嫌いといいつつ好き……。
リンクレイターの登場人物たちは「素直じゃない」。だけど何かの拍子に、ふとあまりにも直截的な素直さが露呈する瞬間がやってくる。
じゃあどうして素直じゃないんだ、と言えば、『ローガン・ラッキー』のこれだからとしか言いようがない。


そして、女性の描き方見て、リンクレイターって本質的に「男の子」の映画作家なのかなと思った。マッチョではない、マッチョさを描いてもどこかそれを避けるような身振りが入ってくる感じ。男の子は素直じゃない……。

登場する幾つかのバー、ダイナーを見るだけで(cold pizzaにうまいビール)、ああこの映画ではアメリカの「場所」をしっかり表象しようとしてるんだなと感じる(ブライアン・クランストン演じるサルがNYで放つ「この小便の臭い!これがこの街の臭いだよ!」というセリフ!)。それはジャームッシュもソダーバーグもそうだ。某映画と違って……。

ルカ・グァダニーノ『君の名前で僕を呼んで』


冒頭強調されるのは、ドタバタとした足音、過剰にすら思えるドアを閉める音。アメリカからやってきたオリヴァーが、そのドアの音にビクッとするちょっとした描写もある。その音は、その後この家の中で、人物の動きを姿を見せずに描く手段となる。人々は他人の動きを音で知る。
その大きい音は、見えないものを描こうとするのではなく、(後から)見えるものをより強固なイメージとする方へ働きかけてくる。
この映画は全編にわたって、直截であるし、何も隠していない。見せるもの、描くことを、複数のイメージを使ってより明らかに、詳らかにしようとしている。
例えば、ラコステ、ラルフローレン、(多分)ブルックスの半袖ボタンダウンコンバース、カシオ、ウォークマン、卓上のヌテラ、トーキングヘッズのTシャツ、といった「商品」たち(全てを無化する感想としては、「おしゃれ」、ということなんだけれど)。
さらに、丁寧な"種明かし"。例えば、主人公2人がお互い、映画の中のどこで気持ちを伝えてた?とか、彼ら2人の間に起こったことについて両親は知ってる、など。画で見ていたらわかることを、わざわざセリフでしゃべらせる(言葉にする)。
もちろん、セクシャルさについても、ぐちゃぐちゃに破られた殻から溢れ出る半熟卵、一息に飲み干されるアプリコット・ジュース、と、アミハマさん演じるオリヴァーの「感じ」(さながら"水も滴る"といったところか?)は、露骨すぎるくらい直截的に描かれる。あとは、あの、すぐ復活した……みたいなシーン。2人が気を許しあって、ちょっとした遊びもできるくらい、みたいなことなのはなんとなくわかるが、それにしても……。
そして終盤、どこで終わってもいい、と思えるようなシーンがあまりにも続く。息が詰まりそうな緊迫感、切迫感に満ちている。これでもか、というくらい「終わり」の気配を見せ、ようやく映画は本当に終わる。
では、あからさまであること、あからさまに全てを示すことは一体どういう意味はあるのか、どういう機能を果たしているのか、と考えると、当然、あからさまさそのものを提示することが目的だ、と思いつくわけで、そうなると、その反面の、隠すこと、も同時に際立ってくる。「隠蔽」を「明示」する……。

あと、これは別にどうでもいいんだけど、80年代の話って感じが全然しなかったな。ティモシー・シャラメくんはどう見ても現代の(価値観の)美少年じゃないですか?

アンソニー・ルッソ&ジョー・ルッソ『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』


いやしかし、ルッソ兄弟万能か?CGのキャラクターのアクションて…とか思ってる頭が吹っ飛ばされる演出力。多種多様なキャラクターの動きの描き方の巧みさ。
冒頭のあの戦闘シーン、キャラクターのサイズ感がちょうど良いし、そもそもサイズ感をちょうど良くしたのがまず素晴らしい。あの肉弾戦で、アッこれは違うぞ、と一発で感じる。
しかし今作を見ると『ブラックパンサー』のアクションがいかに硬直してたかあらためてわかってしまうな(嫌いじゃないんだけど)。ルッソ兄弟の格闘シーンは、移動(自分の意志だけでなく、攻撃を受けることによるものも含めて)があって見ていて目が喜びますね。
そして、絶対勘違いなんだけど、アクションがあまりに魅力的だったので、もしかしたら初見の人も楽しめてしまうのでは…とMCUの中で初めてそう思ってしまった。
あと、敵であるブラックオーダーのキャラクター造形、それぞれの性質の配分、能力の使い方などの"マンガ"っぷりも非常によく表現されている。
もちろんそれだけでなく、例えば、恋する男女はガラス窓の前に配置する、とかもちゃんとやってるんだよねえ。あと列車とか。映画としてちゃんとしようとしてるのがわかる。


今作では、ガモーラの詳細な過去が明らかになるわけなのですが、つくづくガーディアンズ「偶然」に因縁付けられてるんだなとわかり、さらにMCU史上最もメランコリックなヴィランであるサノスも同様と言える。
さらに、スパイダーマンの扱いでも、ジョン・ワッツが提示したこのモチーフをちゃんと踏襲しているといえる。


と考えた時に、もしかして今作では、過去作品で提示された個々のモチーフをきちんと組みこもうとしてたのでは?という気がしてきた。おそろしいな、ルッソ兄弟



しかし『ブラックパンサー』と今作を通して思ったのは、ワカンダは撮るのむずい、ってことだな。というか、ドラマを動かす場所を見つけるのがむずい、って感じか。

スティーヴン・スピルバーグ『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』

最初のシーン、絶対にこうで始まるだろうなというシーンで始まるのでうれしく、それがわかった私は実質スピルバーグじゃないでしょうか(違う)。
そして、最後にはこれ。


さまざまな女性による「代弁」「代読」行為が全編を通して描かれる。そこで語られ読まれる内容の力強さ、鮮やかさよ。
それは彼女達の無力さの表現なんかでは無論ない。今作の男性は自分の話・自分の事情ばかりを語るが、女性は相手の気持ち・他人の話を語ることができるのだ。男は男にしかなれないし自分でしかいられないが、女は男にも女にもなれるし自分にも他人にもなれる、ので映画的なのは断然女である、ということ。
さらに、編集部と食事の席、ベンの家(臨時編集室)とパーティー会場、のカットバックとそれらの間の往還が鮮やかに描写され、その建物の間を息急き切って右往左往する人々、「修正」の名を持つ法律の登場、女性の扱い方、終盤の現実の事件への接続の仕方(あの終わり方はさすがに超絶かっこよすぎて、声に出して「うそだろ…」って言ってしまった)…と考えて、今作は『リンカーン』の続編・二部作だと気づいた次第。

ともかくボブ・オデンカークが出るシーンは全てよく、多分めちゃ良い役にしてあげてる感がすごい。バグディキアンが、情報源について絞り出すように答えた後、彼からどんどん離れていくカメラワーク、マジでうわっ!となったし、彼がデスクに座って、社屋地下の輪転機が動き出したのを振動で感じる(『ジュラシック・パーク』のあれ!)シーン、最高すぎて泣いた。
そして、バグディキアンの顔が艶めいた公衆電話の表面に映り込んでからの、文書を受け取りにモーテルへ向かう少し傾いだカットを見た瞬間、マジで興奮が頂点に達したの、映画の魔だな〜と思いました。
で、このシーンについてなんでこう感じたんだろうと考えた時に、もしかしてこれより前は全てカットでいいと感じたからじゃないかと思った。つまり、マクマナラ文書を入手するところからスタートでよい、タイムズとポストの戦いとかいらないってことかなと……それ言ったら元も子もないのですが。
ただもちろん、なぜ入手より前から描いたのか(あのシーンから映画を始めなければいけなかったのか)はわかるわけです。つまり、「原因」から始める、ということかなと。
今作もこれなんですよね……。


なお、追記として。

リー・アンクリッチ『リメンバー・ミー』


死者、音楽、記憶といった1つ1つがかなりヤバイモチーフの繋げ方、取り扱い方の、針の穴通すような正確なコントロールっぷり。そして、「行きて帰りし」物語、無鉄砲で未熟だけど信念のある主人公、旅を経てなされる成長、ってつくづくピクサーの凄まじさを感じた。
祭壇、祀ること、銅像と写真とビデオとレコードとフィルムといった人間の外部に形作られ残るものと内部に収められるものとしての記憶(引き出しの中の写真と手紙)のモチーフの扱い方もまた良いのだった。
3分の1から3分の2にかけて、このあと起こることがある程度わかってしまうんだけど、それが些かも障害にならず、むしろその「到来」を待ち望んでる自分がいるわけで、それと凡百の作品との違いはなんなんだろうなーと考えてた。