笙野頼子『幽界森娘異聞』を読み終えた。
章の一つにこういうのがある。『真夜中の天使』という小説のあらすじを説明しながら、それに「森娘」の小説の筋やキャラクターをかぶせていき、そこに作者自身のイメージも重ねていき(高校生演劇!)、最後に、その「マヨ天」の作者=中島梓批判になっていく。
「森娘」の住んでいた場所を尋ね行きつけの店を訪ねたり(でもそれらは作者自身の、この「異聞」を「評伝もどき」にしたい、という意思によって、当初の計画のようには進まない。失敗、がしかしおびきよせる偶然の「森娘」の一つの姿との出会い)、本人を直接知る人の声を招いたり、男性同性愛を女性が書くこと、についてだったり、下品な作家を罵倒したり(「狂四郎」とか)、章ごとに書き方、というか迫り方が違う、のがすごく面白くて、「森娘」の、姿が、ちらつきながら、はっきりと像をむすびつつ、それからそれてくような感じで。これが連載で読めてた、というのはいいなぁと思う。
小説の中で、「森娘」と笙野頼子、の、触れられる話題ごと(猫とか食べ物とか)の微妙な一致点とか相違点が描かれていて、最後の章では、「森娘」の小説の一つに出てくる、家を買うこと、が、S倉で家を買う笙野頼子、に、かなり強く重なっていく。
「神様のくれる鮨」が面白い。夢を見ながら、自分の身体が、おかしな形態になっていく。自分の欲求に合わせた形に変化していく、といった感じに。この場合、「鮨が食べたい」ということなんだろうけど、そう単純じゃないような気もする。ともあれ、ここの、神様の鮨はすごいおいしそうだった。最後に出てくる千葉の鮨もうまそう。
《が、先入観なくただ歩いていてそれらを極私的に見る事が今までの私を生かしていた。妙に焦りを感じた。大喪の礼も神宮親謁の儀も、伊勢や東京に居合わせて必ず、何かには出くわしていた。カメラを通さぬ皇室妃の服の色や警備のゴミ箱を見て、それを書いてきた。が、千葉で何を見る―。》「カメラを通さぬ」というけれど、通しても、それが極私的目撃であればいいのだろうと思う。極私的ふれあい、というか、それさえあれば、神についても書ける。

スターウォーズ クローン・ウォーズ』を渋谷で見た。前売りを買って。
タイトルに「ウォーズ」が2つ入ってる。思えば「スターウォーズ」というタイトルの与える感じはすごい。普遍性、といっていいのか。タイトルですでに勝っている。「星間戦争」。「星間戦争 複製戦争」。
敵のドロイドとか背景とか宇宙での戦闘とか、もちろんすべてCGで、だからその点は、実写版(っていう言葉を使うこと自体が、どうなんだろう?)と同じだ。違うのは、登場人物もCGってこと。でも、ヨーダとかジャバはすでにCGだし、クローン兵もそうだ。マスクとったら、みんな同じ顔(たしか、ジャンゴ・フェットがクローンの基礎?になってる)だし。あと人間は、アニメとしてデフォルメされてるわけで。だからそこで、辛うじてアニメになっているという印象。三頭身とかになっていないから、建物とか服とか戦闘機のサイズも普通(のように見えたけど)。
声はオリジナル。でもドゥークー伯爵はクリストファー・リー
あの新シスは、どうなるんだろう。出てきたっけ?覚えていない。
暗い話(要するにエピソード3みたいな)、になるわーなるわーと思いながら見ていたけど、寸前で回避した、という感じ。でも、見てるこっちは、不穏さを必要以上に感じている。でも、それも結局見る側の問題。映画自体は、結局不穏の一歩手前。
エピソード3は不穏だった。邪悪だった。悲惨だった。人がいっぱい死ぬ。
とりあえず、エピソード3を見直そう。

シャマランについて。手前に何かしてる人が(ピントが合っていない状態で)いて、奥で、誰か(主人公と誰か)が喋ったりしている。というのが、よく出てくる。
信じるのが早い、疑うのはちょっとで、すぐ信じる。『レディ』で、アパートでいつも部屋に閉じこもっているおじさんが、連れ出されて役割を全うするよう言われるのだが、傷ついて、というか死んでいるストーリーを見て、「病院に連れて行こう」「信じたいけど…」と、おとぎ話について、ネガティブな発言をするのだけど、そのすぐあとポール・ジアマッティが、新たな役割を見出されて「できないよ…」とおどおどしているとそのおじさんはすぐ「やってみろよ!」というような感じになる。早い。もう信じてるのだ。悩むのは、ほんの少し、しかし、一瞬とはいえない。あくまで少し。しかし、スピードを感じる。速度がある。不思議な、信じ方。

東村アキコひまわりっ 健一レジェンド』8巻を買う。もうあんま健一活躍してない。東村アキコ版「まんが道」になってってる。
作中コント(これは「寸劇」と呼ばれ後者とは区別されてる)。そして、信頼関係のやる「コント」。この2つは、別の次元に存在するもの。だが、やってることは同じ(参加者が若干違う)。どちらも大好き。
東村作品では、コント(寸劇)のできるやつとできないやつがいる。前者の出番が増えていく。だから、『きせかえユカちゃん』で、弁当屋のあいつは影が薄くなっていく。困る役はお姉ちゃんがいるし。
今思ったんだけど、作中の恋愛沙汰や野球大会やらのイベント自体が、すでにコントなんじゃないだろうか。だから、その中で、予定調和な動きや発言、イベント(例えば、告白)のイメージからひっぱってこられた行為(例えば、頭トン)に過剰に反応が集まる。コントだから、注目するしかない。つっこんだりつなげたり意図的な無視したり笑ったりしなければならない。だって、一つのコントだから。