『絵画の二十世紀』。絵にとっての外部。描くものが外にあること。そのものへの「信仰」「宗教的感情」。
身体によって(その大きさとか)、知覚される、感覚されるものの姿は異なる。虫と人間の林檎のとらえ方の違い。
モネ―知覚、視覚の画家→セザンヌ―感覚、色の画家→マチス―感覚、線と色の二つの画家。
自然から身体に流れ込んでくるもの。生の本質。それはセザンヌにとっては色だった。
人間の、身振りによっての説明。身振りのよって現われたもの。そして身振りそれ自体が、感覚をしたものである。ここで、身振りは、感覚したものと感覚されたものの二重性を帯びる。デッサンは、その身振りのようでなければならない。
《ずっと後年になって、マチスは談話集の中で言っている。「もちろん、それ(セザンヌの絵)を売ることはできたさ。でも、私はぐっと持ちこたえたんだよ。是が非でもぐっと持ちこたえる、これがいつも大事だ。無理でもどうでも、持ちこたえる、それが肝心なことなんだ。意思が追いつかなかったら、意地を張ってりゃいい。これが、こつですよ。事柄の大小にかかわらず、大抵はこれで間に合う」。》という言葉は、力強い。
そのものを描くのでなく、そのものが与えてくれた(身体の中にとびこんできた、こちらが発した感覚にはねかえってきた)感覚を受け取る。そうした一連のものと画家とのやりとりを、絵と絵を見る人の間にも再現する。これは、マチスのモデルとの関係と同じかも。受け取った感覚は、身体の中で様々な器官と合一しながら、振動する。でも、その振動は、もの=自然とも、画家=身体=自然とも、独立してあるのでは。間にある。

レディ・イン・ザ・ウォーター』をDVDで見た。やっぱり面白かった。映画評論家は(シャマランの)映画には邪魔?
この映画が好きなのは、シャマランがかっこいい役で出てるから。『ハプニング』の数学教師をやらなかったのは、かっこよくないから?とか考えてしまう。
もっと、化け物が沢山いて、みんなが逃げ回ってほしかった。
くるくると、みなの役割が変わる(解釈しなおされる)。あくまで、キャラクターではない、ような気がする。キャラクターは、そうでなければならない、という、本人の使命感はない。外部との関係で決定される。
シャマランは、まず、撮りたいお話があって、そのなかで撮りたいものが出てきて、それを撮ったら、結果的に、面白いシーン、というか、良い一画面が撮れた、という人なんじゃないかと思った。

ドリフの特番の再放送。松田聖子がすごいいい声だった。わざとらしくなく出す、「わざとらしい」声。けれんみ?
バカ殿は、最初からバカ殿だった。完成されてた。あの、コントの中で、誰かが、おこがましかったり、調子に乗ったりする(今回は八代亜紀の年齢詐称)時、「ポワオーッ」という音(時代劇的な音)が鳴って、バカ殿が刀を手に取って斬ろうとするくだりが、もう今の感じで、あった。
コントの中で演じる役と、素の出演者。そのぶれ。