宇宙戦争』をDVDで見た。救急車の運転手をしていたティム・ロビンス(だと思う)が、自分が見た、病院に到着するまで生きている人間の特徴を、「目をカッと見開いて、ものを考え続けているやつ」だと、トム・クルーズに言う。ここで、生き残る条件が「目を見開いていること」=「見ること」として提示される。トム・クルーズは、娘に、家の中に入るようせがまれても、まるで子どものように「もうちょっと見ていよう」と言って、雷と暗雲のたちこめる空を見続けようとするし、町の中央の穴から、トライポッドが出てきて、人をレーザーで砂にしていくのを、逃げながらも何度か立ち止まって見続けようとする。しつこいくらいに、街角に隠れたりしながら。帰ってきて、自分の体についている(元人間の)灰を払うときも、その場で払う前に、まず、鏡で自分の姿を見てから払う。息子は、宇宙人を「ぶっ殺してやる」ために、軍隊に参加しようとするが、丘の上で、父の手を振り払って戦いの最前線に飛び込もうとする時は、「見届けたい」と言う。兵士として戦いたいと願う、血気盛んな若者というより、冷静に。ダコダ・ファニングが、周囲の人間が見ていないものを見る。車の後部座席から燃え上がり崩壊していく建物、トライポッドに反応して飛び去っていく鳥、人間の写真を取り上げて一瞬見つめるような宇宙人の姿は、彼女しか気づいていない(あと、あれだけの科学力を持っている宇宙人の生命探査をする装置(蛇のような、人間を探し出すもの)は、あくまで、視覚(と聴覚)によって、人間に反応する。だからこそ、鏡に簡単に騙される)。見る人は生き残る。じゃああの「目隠し」は?
息子と父の別れ、のシーン。丘の上を斜め下から映す。丘の向こう側、上の方で宇宙人と軍隊の戦闘が行われている。銃撃戦の閃光やレーザーが、様々な色を放っている。緑とか赤とか白とか。それが、闇夜に映えているところが、すごく美しい。
最後の市街地での戦闘。兵士だけを映すと、ボストンの古い建物と一緒に、まるで、過去の戦争映画のように見える。

前田英樹『絵画の二十世紀 マチスからジャコメッティまで』を買って読み始める。《感覚の対象となっている身体は、感覚される匂い、味、肌触り、音のリズムといったものの強度に満たされて振動する。一本の弦に加えられる振動が、弦の全体を揺るがすほかないように、コーヒーの香り、肉の味、樹木の肌触りは、それぞれの強度に従って、私の身体のすみずみを揺るがす。こういう場合の私の身体は、行動するための骨や神経や筋肉の組織、諸機関の分岐などを必要としていない。感覚の強度は、その内容で私の身体を一挙に満たし、振動させる。まずいものを口に入れた時の私の身体は、そのまずさでいっぱいになり、まずさの感覚は逃れようもなく私の身体のすべてである。》振動が身体を満たす。外部(世界)から内部(自分の身体)へ振動が伝わる。この時、世界も振動しているのか。そうすれば共振動。
《身体には、二つの存在の位相があると言ってもよい。そのうち一方は行動に向かうが、他方は世界の振動に貫かれてみずからも振動する。前者は自己を行動へと凝縮させ、さまざまに組織づけるが、後者は入り込んでくる感覚の強度を通して渦巻く流体になる。身体のこれら二つの位相は、いつも同時に働き、物質の流れのなかに〈同じひとつの身体〉を形成している。》というところを読んでいて、「電脳コイル」を思い出した。