やっと書こう…

マーク・ウェブ『アメイジングスパイダーマン』見た。

ヒーローとしてのスパイダーマンは、まず武器を使用せず、その身体能力の駆使がそのまま移動となり、攻撃となる。
つまり、肉体そのものの動きを描くこと=スパイダーマン、なわけで、その意味で、ピーター・パーカー=アンドリュー・ガーフィールドは、まさしく、そのやや前傾の立ち方、歩き方、スケボーやカメラの扱い方、といった、動きによって、キャラクターを語り、物語を駆動させる。ピーターとグウェンのくだりをやたらと長めに描写していたのはご愛嬌(マーク・ウェブですね)。
しかし、この映画、少し変わっていて、展開が早い。
こういう姿を隠したヒーローものって、主人公が自身の正体を、恋人や家族、敵、一般市民などに、ばれないように行動するなかで、そのドキドキする感じを観客に味あわせて、時にはその足かせこそが、ストーリーを展開させていく、のが一般的っちゃあ一般的だと思うのだけれど、この作品は違う。早々にガールフレンドに明かしちゃうし、敵にも正体を見抜かれるし、果ては自分を追いかけている人間にも、叔母さんも気付いているようだったり、で、まー次から次へとばれていく。それだけでなく、逆にピーターが敵の正体を悟ったり、その理由やら原因やらを明らかにするのもやたらとスピーディーである。そこひっぱるだろ、という部分をあっけなく登場人物たちに判明させてしまう。
それでいて、上映時間自体は長いのが不思議。
最後の、ピーターとグウェンの顛末も、そこは…ってとこまで一気にあっけらかんと展開させてしまっている。

ティム・バートンダーク・シャドウ』も見た。

バートン作品の中でも、かなり好き勝手やっていて、とても良かった。
というのも、すべてに徴を刻み、そのもの消尽させてしまう赤=血=炎=唇、繰り返しやって来てすべてを包み連れ去り奥深くへと取り込んでしまう青=波=海=亡霊、といった、強度を持ったイメージが画面にしるされている、そういった映像のイメージによって映画を構成し創出しようとしているからだ。それは、物語の論理、整合性を保つこととは異なる方法や、手段を用いているということで、それは映像であるがゆえに可能なことである。
それに、いいたかないんだけど、人でなくなっていくものたちが残っていく(そうでないものは去っていく…唯一の例外はミシェル・ファイファー)というルールの厳格な適応の仕方、とか、独り息子の幽霊の母親という関係や、正体の知れない来訪者が到来し家に居座ること、とか、繰り返す埋葬と復活、とか、最後の展開(飛び降りと生まれ変わり)の完全『LOFT』な感じ、とか…黒沢さん見たのだろうか、と思わず考えてしまうくらい。
赤と青、の対比じゃないけど、エヴァ・グリーンベラ・ヒースコートもくそきれいだなー…。
ZAZENの新しいやつ、なんとなくわたせせいぞう的世界観が思い浮かぶタイトル。やはりここでも、80年代のアーバンテイストなんだなぁと。曲調は全然そうじゃないけど/Base Ball Bear『初恋』(傑作と大きな声で言える。「君はノンフィクション」のサビの展開は、ベボベだけじゃあ、ああはならないだろうな、というテイスト)とWHITE ASH『Quit or Quiet』買った/パブリック娘。聴いてる。へたへたな女の子ラップすばらしい。そしてリリックの地に足つく感よ…ポケモンかよ、っていうね/