信号待ちをしていたら、今覚えている限りだと、多分ミッキーマウスのTシャツを着た、おっさん、と呼ぶにはそういう人特有の年齢不詳さが邪魔をしていまいち確定できないのだけど、まぁおっさんが、こっちに向かっている、のに、なぜか、同時に誰に向けているか分からない、という独特の、変な距離感で、「今日は…暑いですねぇ…」と話しかけてきて、明らかに暑くなかったので「いあや、それほどでも」と答えようとするその「それ」ぐらいからさらに「暑いですねぇ…」とたたみかけてきて、聞こえなかったのか、まぁこちらも、おっさんの、身体が軽く歪んだ姿勢、右肩が少し上がり気味、とかその他もろもろに多少びびりながら返事をして声が小さくなっていたのでしょうがない、と思いながら、ちょっと強めに「いや、暑くないです」といってみたのだけれど、おっさんは、さらに視線を曖昧にしながら、立つ位置としては少し道路に身体が出ていて、「台風のせいで暑い」「沖縄にある台風のせいで…」といったようなことをとぎれとぎれに話していて、それに反応しようと思った瞬間にはもうこっちに興味をなくしていて正面の道路のほうに向き直っていて、こっちとしては、無視するのも悪いというか怖いから対応していたのに一方的にそれを打ち切られて釈然としないなぁと思っていたらその直後信号が変わった。
三茶で『築地魚河岸三代目』と『相棒』を見た。
良いクローズアップと悪いクローズアップ。顔を大写しにすることは暴力的なこと、とう前提がまずある…のか?悪い=顔を傷つけるアップ、とする。これは、顔を、不細工に映す、でも、汚く映すでも、いい。後者のほうがより汎用的か。それは、カメラの寄り方の乱暴さ・非繊細さや、照明、によって起こる。
動くものを追う時のカメラの動き。単に追えばいいというわけでもない。少なくとも、カメラを最小限に動かしながら、人間は激しく動いているにもかかわらず、すべておさまっている、というのを見ると良いなと思う。しかし、それだけが正しいわけじゃない。カメラのぶれ、という最小限さから逸脱した動きを含むものもある。ただ、やみくもに、追いかけているものをみると不快。
『築地』で、登場人物が喋った後に、カメラが逸れていき(もしくはカットが切り替わり)、風景を映し出す、という箇所が何個かあったけど、その風景(例えば築地市場の外観)は、あまりきれいに撮られていなかったように思う。なんというか、ただ、映したいものを映しているだけ、というか。「築地市場」を映すだけ。だから、風景じゃないのかもしれない?ともあれ、鈴木一真がよかった。あのキャラクターは、マンガに、そのままで出てくる気がする。ぜひ読んでみたい。あと、森下愛子の食べるシーンもよかった。ただ食べるだけ、がわざとらしくなく、味わってる感じが出ていた。あとはやっぱり田中麗奈がいい。雨の中で、大沢たかおが、レインコートを着せてくれようといた時に、抱きつく、という動きが良かった。
『相棒』の音楽はかっこいいなぁと思う。エンディングの、テレビとは違うロングバージョンのテーマがかっこよかった。
オープニングのタイトルの出方がかっこいい。
一番最初の、死体がテレビ塔に吊り下げられているシーンの、テンションの上がり方ったらなかったけど、その後が…。
爆発は大好きだけど、どうせCGなんだから、もうちょっとかカットを凝っても良かったとは思う。
ダークナイト』で、ジョーカーが病院を爆破する時、最後は病院が崩壊するのを空撮してるのだけど、あそこは、ワンカットで最後まで見せて欲しかった。ジョーカー出てきて、ボタン押して、爆発再開して、スクールバス乗り込んで、病院崩壊、って感じで。いま気づいたんだけど、あの、ジョーカーが乗ってたスクールバスの乗客の失踪した50人、ってのが、あとの人質か。

ベンヤミン『暴力批判論』を続けて読んでる。
「破壊的性格」というのは、「運命と性格」の「性格」であり、その破壊は「暴力批判論」での「神的暴力」によってなされる、と思う。《世界は破壊されるに値いするか、という点に目をつけて世界を吟味するとき、世界がいかばかり単純化されて見えてくるか(…)破壊されるに値いするというこのことこそ、存在するすべてのものをひとしなみにくくる大きな絆》《破壊されたものの代わりに何が立ち現れるかなど、かれの知ったことではなかろう。これまで事物があった場所、犠牲者が生きていた場所に、さしあたり、せめて一瞬間、何もない空虚な空間が出現する。》p242
《(…)状況をひとの手に捉えやすくし、状況を流動的にして伝達するひとたち(…)破壊的と呼ばれるひとたちである。》p243-244
《破壊的性格は、何ものも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道が見える。ほかのひとびとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、いたるところで道の邪魔物を片づけねばならぬ、ということにもなる。(…)また、いたるところに道が見えるので、かれ自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間にどうなるのか、分からない。既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫でなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ。》p244
《破壊的性格が生きているのは、人生は生きるに値いする、という感情からではない。自殺の労をとるのはむだだ、という感情からである。》
ベンヤミンは、ブレヒトの『コイナさん談義』の主人公コイナさんを「肉体を労することをしない」「黙ったままで」「舞台上のできごとを追う」「あるいは追わないこともある」(なぜなら「考えるひとがそれを追いようがない」こともあるから)「考えるひと」である、とする。この「追う」とはなにか。注意深く「見る」という言葉が排除されていることも注目したい。
《あの連中は上品に微妙に問うことをこころえているが、問いの水路を答えの泥どろで(…)つまらせてしまう。これに反してぼくらは、むろん手ごわく問いかける。しかし答えのほうは、三度ふるいにかけたものしか通さない。事態のみならず話し手の態度がそこから透けて見えるような、性格で明晰な答えしか通さない。》p232
コイナさんは、思考の前提を疑わせる。「間違いのない思考がどこかにあって、それに安心して頼れる」という前提。「相応の地位について報酬を得ている連中は、ほかのみんなに代わって思考しているのであり、当該の業務に精通していて、なお残る疑問点や不明瞭な点を一掃しようと絶えず忙しくしている」であろう、という前提。これくつがえるとどうなるのか。端的にいえば、みなが自分で考えなけらばならなくなる、のだ。
「模様がえ」について。p236
《窮迫した現実に窮乏をもって迫ること(…)貧困は、どんな富者にもできないほどに現実に肉迫することをひとに可能にする、ひとつの擬態(ミミクリー)である(…)このブレヒトの貧困はむしろ、一種の万人共通の衣服であって、意識的にそれを着こむひとに、重い任務を与える役目をもっている。(…)「国家は富み、人間は貧しくされている。国家には多くのことをなしうることが義務づけられねばならず、人間には僅かなことをなしうることが許されねばならない。」》p236-237
遠さと近さを同時に感じる。《(…)ある村なり町なりが初めて風景のなかに遠望されるとき、その眺望が比類を絶するもの、二度と味わえぬものとなるのは、そこでは遥けさと近さが一分のすきもなく結びついていて、共鳴音をひびかせているからである。》p176《じじつ陶酔の経験のなかでのみぼくらは、きわめて近いものときわめて遠いものとを同時に、両者のいすれをも欠くことなく、ぼくらの手中にかくほするものなのである。》p189また、舞台の背景は、遠いものを描きながら、そのままの姿で近づけるものとして存在する。
肉体を先行させること。予感や予言を、自分の都合の良いように、肉体をもって変えてしまうこと。p186
「工事現場」について。p169