サム・ペキンパーワイルドバンチ』をDVDで見た。
最後、村から、怪我をしている兵士を含む村人たちが次々と出て行き、荒野の方へ去っていく、時の空の色があまりに不穏で(砂埃のおうど色、夕日の赤、青空が混じったような)、まるで世界の終わりのようだった。入口のわきに腰かけているサーストンの、あきらめや絶望感も、まるで終わりに一人取り残された人、のよう。しかし、サーストンの仲間たちを含めた、村から去っていく人たちの未来も同様に暗いように思える(仲間たちが殺されてしまった、という事実も、ここから去っていったところで…と思わせる)。しかし、インディオたちとともに、おっさんが、サーストンを迎えに来て誘い、サーストンもそれにのり、ついに立ち上がり去っていく、のは、おそらく、逃げていくこと(や、賞金首の死体を金に換えること)とは違い、別の戦場へ!というか、まだ世界は続く、と思わせるような多幸感があった。サーストンが初めて見せた大笑いも、それを表している。そもそも、登場人物の男たちは、よく笑う。その笑いは、嘲笑でも、高笑いでもなく(これは将軍たちだろう)、なんというか、何人かが、その場にいて、誰かがその場にひどく不釣合いな真面目なことをしたり、ある人が、いわゆるいじられるポジションにいて(これは兄弟の弟のほう)そいつに軽いいじりをくわえた時、ある一瞬の間があり、徐々に、みなが顔を見合わせながら、馬鹿笑いしていく、という感じだ。これが、フィクションで、再現できる、のはすごい。例えば、ガキ使の、24時間おにごっこ、の時の、浜田さんに対する、みんなの、肉まんや魚肉ソーセージやうどんのお揚げさんをあげなくて、浜田さんの「おかしいだろ」的な顔、そしてみんなで半笑いの状態になる(もちろんテレビなのでその先には行かないが)、のに似ていると思った。しかし、それができるのは、パイクたち強盗団のほうで、サーストンにはそれができない。だからこそ、最後の、サーストンの笑いに圧倒的な喜び、を感じてしまった。彼は、最後までパイクとすれ違い(最後の銃撃戦も遅れてやってくることいかできない)、ともに笑うことができないままだったから。
青空と雲があまりにきれいすぎて動かなすぎて、にせものに見える。というか背景画か?
落下するスピード。ショーウィンドウに突っ込んでいくスピード。
くるり「さよならリグレット」を買った。くるりの曲で、女性のバックコーラスはあまり使ってないように思う。「ばらの花」以来かも。
小田和正と一緒の「ばらの花」を聴くと、こういうのは、一体事前にどれくらい決めているのだろう、と考える。「最終バス乗り過ごしてもう君に会えない」のところが、岸田繁氏が、小田和正が裏で歌っているのにあわてて自分が表で歌い出す、ように聴こえたから。