トニー・スコット『デジャヴ』をDVDで見た。メモを取りながら見た、んだけどあまり意味ないような気がする。
最初の船の爆発の時の水中からの映像。水と、爆発のオレンジ、がくっきり2色に分かれて見えてきれいだった。
視線、というのは、光、を目から放つ(そしてそれが対象物に届く)こと、だから、それが、その光線が映像=過去に届く(=映像を見る事ができる)ならば、ペンライトの、光も届くはずだ、というむちゃくちゃな理屈を、まぁ、タイムマシン的な装置があるよ、ってことで通している。というかこれは、映画の比喩じゃないかと思った。絶対に触れることのできない、帰ることのできない過去の世界=作品に対して、我々ができるのは、視線を投げかけること=見ることしかない。だから、後半のデンゼル・ワシントンの行動は、「もうこの世界入りたい(くらいこの映画=映像が(この作品の場合は「女が」だろうけど)好き)!」っていう人の究極の行動、だった。
爆発で吹っ飛ぶ人のスロー。『ワイルドバンチ』。
港湾(まぁ川岸か…)の風景は良い。埋立地的な感じもする。
デンゼル・ワシントンが動く時の、カメラの横への移動、がすばらしい。なんでデンゼルだけ?というか、この映画で実質動き続けているのはデンゼルだけだからか。
過去に対して、視線のみの存在になる。
ゴーグルを使った、過去の映像とのカーチェイス、って時点ですごいのに、しかもゴーグルがぶっ壊れて、遠隔操作されながら、なおも過去を追う、のは、もうやばい。
これは、「カトリーナ後」の映画。911じゃなく?
過去の体験は、一体何に属するのか。過去の時点のデンゼルは、初めて女の死体を見たときから、明らかにデジャヴにとらわれているように見える。しかし、彼は、その時点で、初対面、始めて見た、はずだ。しかし、その後、デンゼルが生きている状態の彼女に会うのは、その、死体を見たときよりも前だ。でも、その体験をするのは、未来のデンゼルで、過去のデンゼル、がそれを覚えているわけじゃない。しかし、事実として、(過去の)デンゼルが、死体に対面する前に、(未来の)デンゼルが彼女と会っている、のは間違いない。だって指紋やらなんやらが彼女の部屋に残されているから。まぁ、その2つのデンゼルは、同一人物とはいいがたい、しかし、同一人物である。では、過去のデンゼルが、意識した彼女への既視感とは?それは、その時空間に属する、ものだった。デンゼル個人でなく。過去、は、個人でなく、その時空間に属する。空間に、記憶を預けている、記憶は空間に保存されている。

ポー『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』を買って読み始める。
ウィリアム・ウィルソン」という奇妙な小説。ドッペルゲンガー、とか、多重人格、とか、いろいろ読めるが、そのどれとも違う気がする。なぜ、暗闇の顔を見て驚愕したのか?(顔がそっくり、だということは、すでに認識している。「他人の顔に見えた」、というのを字義通りうけとるなら、ますますわけがわからない。そっくりだと思ってたのが全然違ってた、ということ?いや、そこに自分の顔があった、しかし、それが自分には「他人の顔」に見えてしまった、ということに対する驚愕?…この、「他人の顔」というのは、「(もう一人の)ウィルソンとは違う、別の顔」=「自分の顔」に、見えてしまった、似ている、という次元でなく…というのが今んところ優勢)例えば、もう一人のウィルソンが、幻覚だとして、語り手以外に見えてないとしたら、コートはどうなるのか?(まぁ、それすらも幻覚、ということができるが(「裏切る心臓」では、語り手に、その問題(「狂人の論理は正しいのか」)について語らせている…そもそも、論理でなく、行動によってしか、人を狂人かどうかなんて判断できないのでは?だからこそ読者は、この語り手が「屍体をばらばらに」し床板を外してそこに放り込み、その子とを説明しながら「ハ、ハ、ハ、、、」と笑う、時に、狂人と確信する…まぁそれは小説的なうそで、実際は最初から「こいつ狂ってる」と、(あくまでこの小説の場合はだけど)思う)…しかしそうしたとき、この小説自体が崩壊する、という、仕掛けも面白い)そして最後の言葉は何を意味するのか?殺された/殺したのは、ウィルソンなのかウィルソンなのか。
ばれるかもしれない、ことをやって、それを言いたくなってしまう「黒猫」「裏切る心臓」、つい逆のことをやってしまいたくなる「天邪鬼」、…というのを読んでると『人間失格』を思い出してしまう。「ワザ、ワザ」とか。

髪を切ってもらっている時、美容師の手が額に触れて、その冷たさを感じた、時にそのことを伝えようとしたけどやめた。