ジョン・カーペンターエスケープ・フロム・L.A.』をDVDで見た。カート・ラッセルはかっこいい。スネーク・プリスケンの、あの喋り方!肉声なのに、加工したような、くぐもった、伝えるという機能を無視した、喋り方。
スネークは、すでに有名人で、収容所やロスで、さまざまな人間に、クリーブランドやニューヨークでの話をきかれたりする。また、それらのスネークについての記憶、というのは、当然、そうした伝説化された物語、だけでなく、「思ったより背が低い」といわれたりする、つまり視覚的イメージとも結びついている。少なくともここでは、背の高い男、がスネークの姿としてイメージされていた、ということ。しかし、彼は、そうした自分の物語を、疎ましく思いつつも、離れることができない。ついに、自分の過去と直接結びつくパム・グリアに出会ってしまう。最後、手渡されたホログラム映像を発生する装置で警察や大統領を出し抜き、世界を破滅させる(しかし世界、というか文明の破滅が、単なる停電みたいにしか描かれないのはやはりすばらしい。誰でもできる)時、警察に、「スネーク!」と止められ、あんなに"Call me snake"といい続けていたのに、「プリスケンだ」と、呼び名を変えてしまう、のは、その時のスネークが、ホログラムの立体映像であるから、その場所には実在しないイメージであるから、だろう。ここで、同時に、自分にまとわりついていた過去のイメージも、それは「プリスケン」がやったことだ、と決別をしているようである。
バスケやったり、サーフィンやったり(これはすげぇ)、カート・ラッセル祭りだと思った。ファンサービスみたいな。
荒廃したロスの風景。その、荒れ果てた様々な場所が、本来の、隠された意味を暴いているようだ。残酷な出し物を行う所としてのフットボールスタジアム(汚くゴミが散乱しているだけなのに、もう普通とはまるで違う顔を見せている)、反転したハリウッド、祭りが行われ、殺戮の現場となるアミューズメントパーク。

ナボコフの一ダース』を読み進める。描くものがすべて豊潤なイメージを伴って、こちらに迫ってくる。美しい。
物語の邪魔になる(進行であったり、美しいあるべき小説の形であったり)人物を、安易に唐突に死なせてしまう。『ロリータ』のドロレスの母親、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』の、セバスチャンの元秘書で元恋人の女性、など。この短編集でも、そうした唐突な死が多く登場している。「フィアルタの春」の最後の事故死、「アシスタント・プロデューサー」の歌姫の死、「夢に生きる人」のピルグラムの死。
ちらちらと読み返すと、「忘れられた詩人」がボルヘスっぽかったりするのだけど、それにしても「フィアルタの春」は、なんて、きれいで、風景と、記憶と、イメージを、豊かに描いていているんだろう。