『日本フリージャズ史』を読み終えた。
・p47ジャズのニュー・クリティシズムとして、「情況との関連の中にジャズの表現論と本質論を見出だそうとする試み」があったらしいが…でも…
・p53富樫雅彦クインテットにおける演奏。《彼の想念は音に乗って澄明な空間を形成し、それは演奏の展開につれて、見る見る膨れ上り、余り広くないピットインの室内いっぱいを占めてしまう。聴いている我々は、その空間の外側の膜のようなものに壁際まで押し付けられて、ついには身動きも出来ない具合になったと感じた次の瞬間、まるでシャボン玉の内部に入ったように、この空間の内側にいる自分自身を発見するのだった。》
・p68の富樫と山下洋輔の対比。レコーディングとライブを厳密に分ける前者とそうでない後者。
・p69山下の一文。《ジャズは、たとえば、音をもって行うボクシングやサッカーのようなものだ。だから、ここで作品とか芸術というなら、ボクシングの一試合が作品であるようにしかジャズは作品ではあり得ないし、サッカーの試合のある一瞬が美の領域を現すようにしかジャズは芸術ではあり得ない。そして、そこで演奏者(プレイヤー)がなすべき事は、ものほしそうに「芸術作品」などを追い求める事ではなく、その場で一瞬のためらいもなく最善のボールを蹴る、という事以外にはないのである。》
・p71富樫の一文。《(…)演奏の初めから終りまで枠の中にいるやり方や、枠を媒介として少し外に出ると云ういわゆるフリーリーなものに対して、枠の輪郭線上を進んで行く方法でやってます。》
・p74佐藤允彦の発言。《(…)自分がボロボロになる時に、どれだけボロボロになれるかという事。》
・p80高柳昌行「伝えたい情報量が多いほど、音量は大きくなるものだ」
・p80「皆んなでやろうとしてる」「山下トリオ」の中でも、「自分だけで走る」阿部薫に対して、高木元輝は、一緒に演奏したあと、「あれじゃ、音楽にならない」と言った…音楽ですらないもの、とは?
・p104井上敬三。「阿部ちゃんと一緒にやったの、あれは楽しかった。終ったらニッコリして、俺がこうやれば井上さんはああやる。で、俺が向きを変えてやると、井上さんは斜めにやってくる、と手振りをつけて言うんですわ」
・p107阿部薫の言葉。《[アンケートの「私の主張」または「現在考えていること」に答えて]判断の停止をもたらす音。消えない音。あらゆるイメージからすりぬける音。死と生誕の両方からくる音。死ぬ音。そこにある音。永遠の禁断症状の音。私有できない音。発狂する音。宇宙にあふれる音。音の音……。》
・p112阿部の発言「一音そのものを、とことん解体してやる」
・p120ナウ・ミュージック・アンサンブルの藤川義明によるマニュフェスト。《〈狂え!〉 我々は行きづまってもいないし、飽きてもいない。「あいつらはとうとう狂った」と言われる日をめざして、ひたすら狂い続けるのみである。そして最後に「自由なのだ!」と叫んで笑ってやる。ハハハハハ。》
・p132《NMEが北海道大学に招かれた時、最後の曲としてこれをやったら、夜の十時から二時間叩きまくって、メンバー一同がもうよかろうと引上げた後、観客だけで朝六時まで叩き狂い打ち狂っていたというからあきれる。挙句、早朝に藤川の寝ている部屋のドアが叩かれ、「藤川さん、只今演奏を終りました」と報告に来たそうだ。》
・p134《表に出ると、画廊を追い出された客たちが路上に立ち、皆ヘラヘラと笑っている。このイヴェントは、集まった客をどう追い出すかを目的としたものだということを知った顔であった。》
・p175藤川発言。「俺たちが言葉を使う場合、なるべく単純で出来るだけ多くのものを指す、つまり大きな一言でいきたいんですよ」
・p190《オーネット・コールマンが「どんな変なことでも、三年続ければ何とかなる場合がある」と言っていたのには励まされたよ。》…
・p328高柳の言葉。「閉した楽耳」とは?
・p376「知的障害を持つ僧のグループ『ギャーテーズ』」
「藤川さん、只今演奏を終りました」という言葉は、無作為にやろうという作為から始められた、無作為をうけ、無作為化したそれを無作為にやろうという作為となりまた無作為になって、そこから、最初の作為のところへ、全然わけわからない方向から跳ね返ってきたもの。

丹生谷貴志ドゥルーズ・映画・フーコー
《繰り返すがイマージュには外部などない。蜜蜂は蜜蜂自身の死を死んでゆくが、その死は例えばそれを見ているわれわれのイマージュの中に引き取られる。蜜蜂は自身の死を死にながらわれわれの世界の中に死んでゆく。私は私の死を死んでゆくだろうが、私の死はあなたのイマージュの中に引き取られてゆく。われわれは自身の死を死んでゆくだろうが、例えばそれは禿鷲のイマージュの中に引き取られてゆく。すべてのものは自身の死を死んでゆくだろうがそれは例えば砂漠のイマージュの中に引き取られてゆく。あらゆるイマージュは他の無限個のイマージュの中へ死んでゆくのだ。だから、死は単一ではないし、たぶん沈黙でもない。何ものかが死ぬとき、何ものかのイマージュがその臨界に触れる時、それはイマージュの外部へ、単一で魯鈍な沈黙としての外部へ出てゆくのではなくて、別のもののイマージュの中に入り込んでゆく。》p29
《われわれのイマージュ世界は常に誰かの或いは何かの死後の世界であり、常に誰かの或いは何かの生前の世界である。そしてそれは無限個のモナドにおいて無限に交錯し、無限のイマージュの持続において持続している。私は誰かの死後の世界を生き誰かの生前の世界を生きる。猫たちはわれわれの死後の世界を行き生前の世界を生きる。蜂たちは猫たちの死後の世界を生き生前の世界を生きる……以下同様……。》p28-29
ブルース・サーティーズとは「(…)映画を進行させる〈物語〉とは別の時間に属するものを画面のいたるところに綻びのように映し出してしまうという奇妙な癖を持ったキャメラマン」。《キャメラという機械は、当たり前の話だが、監督と〈物語〉の要請に無関心に留まる過剰な「もの」を絶えずフィルム上に取り込んでしまう。どのみち映画の画面は膨大な異物に満たされてしまうわけである。だから、キャメラマンと演出の努力は、可能な限り視点を〈物語〉の進行に集中させ、あたかもあらゆる細部がその映画の時間に属し、その〈物語〉の細部としてそれに奉仕しているかのように、「もの」の異物性を目に見えぬようにし、それは発しかねない無関心性と視点の拡散を排除することによって、〈物語〉の世界を護り続ける努力であるとも言えるだろう。その操作が失敗するたびに映画の〈物語〉的統一は綻び、雪崩れてしまう危険がある。ともあれ、その意味で、ブルース・サーティーズというキャメラマンは実に危険な癖を持ったキャメラマンなのである。》p32-33
《しかし、イーストウッドの演出には絶えず〈物語〉の枠組みを綻びさせ逸脱してしまうものへの寛容、むしろそれへの奇妙な執着すら感じられることがある。》p34
イーストウッドにおいて映し出される「もの」のとりとめのなさは絶えず〈物語〉の枠を散乱させるが、一方〈物語〉の進行はその危機の中に分解してしまいはせず、その固有の「愚鈍さ」のままに紋切型の進行を律儀に辿り続ける。言わばここには「エロス」と「タナトス」の、否定を描かず、ただ互いに「肯定」をさし向け合うパラレリズムの現前があるこのようなのだ》p38
「だれのものでもない視線」。《言うまでもなく、我々は誰も見ていない世界を見ることはできない。(…)私以外の誰かがであるにしても、この世界は誰かによって見られている、或いは見られ得るということにおいて存在している。》《それが望遠となると映像の中心化は希薄になり、無差別性が前面に出て来る。「誰かの視線」の擬態は崩れ「誰のものでもない視線」の無差別性、無関心性が露出し始めるのである。(…)しかし、今、そこからあらゆる人間が消え去る。つまりは「何者かの視線」へと絶えず繰り込まれて来たキャメラの視線はそうした人称性、独我論的統合の痕跡を失い、「誰のものでもない視線」「誰でもない誰かの視線」へと変移してしまう。》p41-42
それが、ドゥルーズの「自由間接話法的ヴィジョン」。これは、「世界と人との間に築かれて来た物語的統合の破綻の結果として露出して来たとも言える」。
《人間の視線にも物語の視線にも、或いは神の視線にも属さない視線、選択せず、しかし、過度に無関心性を固持することもない視線、「〈外〉の視線」を事実としてそれは含んでいる。(…)その視線は選択せず、判断を含まぬ実践だけで出来た視線であり、従って排除もしない。人間を含めたあらゆる出来事、事象を無差別に現前させ運動させる視線、「この世界」を貫通し組織し、解き、結び、運動させている「平野」を織り、開き続ける視線がそこに現れるのである。(…)ともあれこの視線は人間的限界の〈外〉に属する。それは不可能性やら彷徨い、「脱構築」といった人間的限界において自身を繰り延べてゆく言説の場所の〈外〉に属する視線であり、人間を含めた世界へと開かれた視線なのである。》p43-45

《「無理とか言わずにそこは」諦めずにほら/自分を信じて/妥協を許さず道を歩む/弱音吐かずに生きてくその姿が/何よりも(何よりも)/素敵さ》という励ましであり誤魔化しの、すばらしさ。