高橋悠治 コレクション1970年代』を読んでいる。
《……きみの力づよい手は、音楽と世界をきりはなした。音楽はもう世界に奉仕していないよ。宮廷や教会から音楽をとりあげて、独立した世界にしたてる。(…)具体的な場所で、楽器をもった人間とそれをきくひとのあいだからうまれる具体的な音楽じゃない、どこでも通用する抽象的な価値をそなえた音楽が問題なんだ。》p129《集会場は、外部の音がはいらないように、壁でかこまれている。窓もなく、外はみえない。音楽は現実の一部じゃない。それは非現実の全体になろうとしているんだ。(…)現実はかれにはおかまいなしにすすんでしまった。》p130《ひとりのともだちもないきみが、人間全体の友人としてのすがたをあらわす。》p131《……きみは名をすてるのを拒否している。これらはきみのもので、わたしたちのものじゃない》p133…音楽を状況と切り離し、純音楽、音楽のための音楽とし、純粋な音楽家(誰のためでもなく、自分のために(自分の名の下で)音楽を作る人)となったベートーヴェンを語る言葉は辛辣だ。ではどんな音楽が?《わたしたちの音楽は私有物ではありえないんだ。わたしたちが生きていたことには意味がなかった。だから死によってうしなうものも、なにひとつなかった。もつことにこだわるものは、ながれの表面の泡みたいに、しばらくもちこたえてはきえて、あとにはなにものこらない。はじめからなにももたないもの、もつことをあきらめたものは、無名のながれにひたって、火をさける。かくれた水脈はほそく、水はつきない。コンクリートはくずれおちたが、つかれきった柳はまた葉をつけはじめた。わたしたちのは、きくものがたちどまって自分のすがたをそこにみつけることのできる音楽、魂にくいこんだカキがらをあらいながすことのできる音楽なんだ。いつもかたちをかえ、かたいものをけずりとる。いちばんちいさいものは、どこにでもはいりこむ。光をかすかにし、すばやくうごく、かたちをきりわけ、そこなわずに、たくさんのうつわをつくるのさ。うつわをわけるものは、ひとびとをむすびあわせるだろう。》p133-134他者性、誰かが使えるものとしての音楽=戦術?《すべての定義、理論、方法は、戦術なのだ。音楽や知性そのものでさえ、変革のための戦術にすぎない。》p138《「人生のおしえる戦術は、たたかいと克服だ。勝利や敗北はつきものだ。それはまた生産でもある。だれでも病気はあり、それぞれの抑圧や恐怖をもっている。日々のしごとと思考によって、それに勝つのさ。(…)》p145そして、純粋音楽家にならない=プロにならない、だとすれば?《ひびきをみしらぬものとして、ムジャキなおどろきをもって、おずおずとためしてみること。なれた手つきで感情をもてあそび、音に酔わせ、みずからも酔う名人芸ではない。アマチュアの態度だ。》p163
《オーケストラの演奏家は聴衆のなかにバラまかれ、音のうずまきが聴衆をとりかこみ、走りまわり、つきささる。》p158や《(かすかに音楽がはじまる。Bのシンフォニーやソナタが全部同時に、しかもひびきがまじりあうことなく、それぞれ空間の孤立点からきこえる。(…)》p133といった、音の発し方にまつわる記述はやっぱりおもしろい。