ヴァンサン・フルニエ展を丸の内ギャラリーで見た。
ただの、風景が写っただけの、例えば絵葉書と同じような、景色が観光地化されているとと思ってしまった、山頂にあるマナウケア天文台と、その下に広がる雲、の写真と、ユタ州ハンクスヴィルの火星砂漠研究基地一帯の、木の年輪のように色や、おそらく性質も違う層が重なった岩山や、地平線の向こう、日の出とも夕焼けとも知れないが、太陽がなくその両方に見えるあいまいな、とりあえずの定義としか言い様がない「赤」と「青」が無限に別れ混じりあう空、それらや砂漠の色が表面に映り、さらに光によって白く飛んでしまい、色がますます視覚によって定着できない湖、それらの中に立つ訓練のためらしき宇宙服を着て、透明なヘルメット(?)におそらく見られる風景を微妙にこちらに反射させてもいる女性、などがある写真の違い、は、ゆらめきの有無じゃないかと思う。前者と後者の雲を比べるとよりはっきりする。後者のそれは、まるでこちらの視線をはねのけるように、白や灰色が重なりあい、会場の照明がその上で反射し、より見にくくなる。あいまいなものを写すことであり、写す行為によってものをあいまいにすること。視線の定着、つまりそのものの色形をはっきりさせることを拒否する写真。それはまた、白い壁の背景を強く、砂漠にはないであろうしだからこそ目立つオレンジや緑を薄くするようにして、まるでレゴブロックやミニカーのように見える宇宙で使われるであろう様々な器具や乗り物や、奇怪な形の建物、透明度の高い水に半分浸かっている衛星の写真とは異なるがしかし、これらはまた別種のあいまいさを含んでいるとは思う(人間の、ものの存在が強すぎて、逆に疑いを持ってしまう性質、というか…在るものを、ありえなくさせてしまう…)。
写真の人間は意味を決定する。例えば、「ロシア製のソコール宇宙服を着たボリス・V・ネデョノフ将軍/ユーリイ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センター 2007年11月」というタイトルがつけられ、古めかしい宇宙服を着た男性が、これまたくすんだ花柄の壁紙を背に立っている、という写真。ギャラリーでもっともはっきりと人物写真として在るこの作品は、「ロシア」「ガガーリン」といった単語、古びて汚い壁紙だけですでに、他の写真がほぼアメリカである(1枚、中国のロケットの写真もある…)ということを鑑みるとさらに、強い意味を持つが、うつろな表情の男性がいることによってさらにそれが明確になっている。というか、恣意的とすら感じる。この組み合わせはわざとか?雄大な自然、ととりあえず記号的に解釈することも可能なユタでの写真と比べると…。それはともかくとして、人がいるのといないのでは、写真の受容の仕方が変わる。表面上はうけいれやすくなるが、同時に示すものが何層にも複雑になる。…?

流星の絆』を見た。「幸薄」「声低い」「地味」のポストイットや「かわいそう顔」、ホストが似合っていたという評価、など、誰しもがうすうす気付いてたけどもちろん本人には言えないもしくはすすんで言わないような(ほんとに言えないレベルじゃないけど…いい面もあるし)その人の(ほぼ見た目の)特徴(パブリックイメージも少しあるような)を言われたり(言わせたり)する(『ぼくの魔法使い』や『タイガー&ドラゴン』でのハンサム呼ばわりなど)というのや、やたら細かいたとえ話や登場人物の想像する情景のディテール(家族風呂つきの部屋、スポーツ・風呂・スポーツ・風呂、からの冷凍ピラフ、で「殺すね!!」「深いようで、浅ぇ…」…)、つまり、本筋ではない枝葉の話題や、やりとりの豊かさ、そして時系列の交錯(今回はあまり複雑ではなかったけど。今後は過去と現在が同時に進んでいく?)というような、特徴がやっぱりあって、おもしろかったー。2人の刑事の、ハヤシライスにまつわる記憶違いや、50すぎてからタバコを吸う、というのが、謎解きに関わってくるのか?錦戸亮にばりばりはまってた、もはや恒例な早口のしゃべり方や、戸田恵梨香の「きもっ」、二宮和也の尾行の仕方やフリーズ状態、といった過剰さが、今後また発展されていくんだろう。俳優にはまった(良くも悪くも、と言うべきだろうけど)部分を引き伸ばしてそれを脚本にフィードバックさせていくやり方をよくするし。

高橋悠治 コレクション1970年代』。
《平凡なものから、さらに特長をぬきとり、いつまでもくりかえすことによって、白い壁のように引下っていく。それとは気づかれずにある心理状態をつくりだすのとは反対に、真空をつくって、きき手の心のなかにあるものをすいとってしまう。》p167
《グロボカールの「オーケストラ」という計画では、いくつかの独立したグループが、古典・現代・即興などのあらゆるスタイルで自発的に演奏すると同時に、作曲者(グロボカール)と聴衆代表の討論がおこなわれ、壁には他の作曲家たちからよせられたコメント(大字報)がはりだされる。これは「作品」でなく、オーケストラそのものを討議する集会なのだ。》p174
「時空の網目をくぐって」は何度も読み返したくなる。
《最終結果だけでなく、そこへの過程も同時にしめすような作品》p191
《ありふれた楽器からききなれない音をつくる。》p194
《手なれたかたちが、ききなれないひびきをたてる。それがしるしだ。音楽ににて、まったく違うあるものが、やさしくとりかこみ、とらえどころのない影のオペラが、おだやかにみしらぬ光をなげかけよう。》p196
《音がきえぬうちに、できかかるバランスを/つきくずす。/それはなれた手ではなく、/注意ぶかい耳、/そばだてた耳のしごと。》p198
《音の練習―うつしたものを、ひとりでくりかえす。自分なりにおぼえた手はこびは、手本とはちがう音をたてはじめる。》p203
p208のソローのエピソード。描くもの、と、身振り手振り。
《メロディーは一瞬のうちに、全体としてそこにあるのだ。》p210