黒沢清、21世紀の映画を語る』を買って読み終えた。
《カメラで撮る、つまりそれは脚本を書いているときに頭のなかで想像していた様々なドラマ、物語性、エモーションといったものが、見事に次々と全部剥ぎ取られていく行為なのです。(…)だから、一生懸命誠実に作った映画が、物語的にはどんなに破綻していても、それは映画そのものに忠実だということ(…)》(p194-195)
《(…)一シーンは一分が妥当であるということ。(…)しかし、人の会話、あるいは俳優の台詞という観点から言えば、一分程度ではロクなことがしゃべれない。(…)さあ、この矛盾をどう解決していけばいいのか。》(p226)ここに「リアルとドラマの最前線」がある。現実と非現実をどう近づけていくか。
《(…)これこそが主人公の目的だと思っていたことが、ある瞬間急に違っていた、とか、本人も実は迷っていた、とか、あるいは最初ある感情に支配されていた人間が、途中でまったく違うものにすり替わっていて、主人公もどうも最初の状態を忘れて、すっかり違うことをしている。あるいは、ときには彼は何も考えずただぼんやりとしていて、周りの人が何かしているけれど、彼には喜怒哀楽はさっぱりわからず、目的も何やら見失ってしまったようだ。そういったことこそが、人間描写という点で言えば、僕にとっては正しいと思えて仕方がないのです。》(p273-274)
《(…)僕が個人的にどうしても気になる二一世紀の映画には共通する点がいくつかあるようなのです。それはずばり「外側」とか「外部」というものなのではないか(…)》(p284)それは「脱線」とか外部の突然の「露出」とか急に「外部との関係が乱暴に位置付けられてしまう」とか、そういうことだ。
グエムル 漢江の怪物』を、「怪物」と「河」と「ソウル」、現実の外部と非現実の外部の「中間地点」の映画、とする見方にはっとした。そして「河」の重要性。つまりそれは水辺、ということじゃないか。水と陸の際…。トニー・スコットの川、ポン・ジュノの水辺と雨、シャマランの水。あと『踊る大捜査線』の好きなとこ、びちゃびちゃに視界を曇らせ行動を制限する雨とのっぺりとした灰色の川と海がある湾岸地域だったりする…。
自分の好きな映画(ここで黒沢清が語っている映画がそうなんだけど)、について考えてみる。それはつまり、現実とか外部とか世界とか(黒沢清の言う、カメラの周りにあるに決まっている、がしかし映画においては切り取られてしまう、フレーム外)と「切り結んでいる」映画なんじゃないかと。半ば強引に、大胆に、映画自身の外へと関係しようとしている作品。
今日偶然やっていたスピルバーグインディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』が嫌いになれない、むしろ好きなのはその現実との切り結び方だ。多少あざといのかもしれない、力業でインディ・ジョーンズと冷戦、ロシア、共産主義赤狩り、水爆、マインド・コントロール(それはアークや聖杯よりも新しく強力な武器)、宇宙事業、そして父と子、とを結びつけようとしている。それらはインディにとって、インディ・ジョーンズという作品にとっては外から舞い込んでくるものだ。願わくばそこにさらに…ってな思いもあるのは当然としても、この映画に現れている考えとか思いに感動してしまう。
「カメラはぎりぎりの境界線に置け。物語は世界全体にかかわるようなものであれ」というポン・ジュノについて語るうちに出てきた言葉は、まったくその通りで、そういう作品が良いんだ、と強く思う。
そしてこうしたことを小説にもちこめるか、と考えている。例えば、「リアルとドラマの境界線」を小説に発生させられるか。100%がドラマ・物語であるところに、現実、外部、世界を持ち込めばよい。それをやってのけている作品も存在するし。映画とは別次元で行われるけど、同じことだ。
こないだ赤坂で黒沢さんを見かけた時に読み終えてたら、声かけてたなぁ…。
岩本ナオ町でうわさの天狗の子』7巻も買って読み終えていた…。胸キュンすぎるわー。