黒沢清リアル〜完全なる首長竜の日〜』見た。初日の第一回。渋谷のTOHOシネマズで見たのだけれど、地下の小さい劇場だったのショック…。

まず言いたいこと。飛古根島の警察署を健が訪れる時、絶対誰か出て来るんだろうな、と一瞬、加瀬亮か、もしかしてアンジャッシュ児嶋か、とか考えたんだけど、なんとハマケンだった!黒沢清の映画にハマケン!!超びびった。
そしてすごいむずい。が、がんばってみよう。
ゴーストライターを容認してしまうオダギリジョーや、無謀な蘇生に協力する中谷美紀(闇雲な発案をし危険に飛び込んでいく綾瀬はるかより、彼女の方が異常だと思う)、船での旅立ちを即取りやめる佐藤健、たちは、その一見逡巡すべき決断を瞬時に下してしまう。そのスピード感はまさに黒沢映画の登場人物なのだけれど、それであるがゆえに、まるで内面的葛藤がない人物のように立ち現れてしまっている。
当然誰もが言及するであろう哲学的ゾンビは、簡単に言ってしまうと、内面がなく外面の反応だけの存在、ということなんだけど、それってつまり、役者もそうだよな、ということだ。
顔をメタリックに塗りたくり(いやすごい笑えて楽しい画だった)、多少の映像加工を加えられゾンビ化した人々、作中漫画に登場し、現実化してしまう特異な殺され方の死者たち、抑圧した記憶からよみがえる過去の人物たち(モリオ)、画面上に他者と並ぶ時、その人物と同じ空間にいるにもかかわらず、異なる光と色調をまとって、土色の肌で、まるで生気がないかのような佐藤健、…と考えた時、この映画には、尋常でないくらい「人間」が現れない。では死者なのか。…いや、それですらない、本当に名指ししがたい何者たち。
では、その描出される世界はどうか。
霧に覆われた市街地、溶けだしてしまう世界の終りのような都市(またしても終末、ではある)、突然扉を発生させ水浸しになってしまう部屋、時間と空間を飛び越えさせてしまう離島、廃墟(あまりの「廃墟」っぷりに爆笑してしまう…ほんとうにすばらしい廃墟だった…)、密室にも関わらず光と風を呼び起こしてしまい、それがあろうことか中谷美紀と触れ合ってしまう病院(髪をなびかせ光が差すその表情は、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の洞口依子を思わせる)、扉にはめ込まれた硝子があっけらかんと街路を一瞬映す(しかし、それが何なのか?)浩市の母親の住む家、少年が誘う首長竜の化石のある博物館、典型的ホラーの構図と捉えられる(というかあの空間がそれを要請したともいえる)貸倉庫、…ここではセットとロケ、屋外と室内、そういった条件が入り乱れ、その要素が、物語を、映像を動かしている、んじゃないか。ストーリーより先に、これらの空間や世界がある、というような。
…いやぜんぜん根拠がないんだけど、このフレーズが出てきてびっくりした。そうか、こういうことなのか、と。一見どうでもよさげな貸倉庫がヒントになった…。
そこで描かれるのは、人間でないものたち。どういうことなのか?
で、また気になるのは、小泉今日子だ。彼女だけは、ゾンビの姿を見せない。
ブローバックした銃を持つ綾瀬はるかはすげぇよいし、そして極めつけは、黒沢清によるモンスターパニック描写が見れたことに感動。あの執拗な攻撃っぷりからは、完全に、あの画や動きを見せたいだけなんだろうな、というのが伝わってきた。つまり『ジュラシック・パーク』だ!舞台は島だし。
だからこそ、フィロソフィカル・「ゾンビ」、なのだから、その語義通り、「人畜無害」な存在なんかじゃなくて襲ってきてほしかったし、彼らを撃退する、というか躊躇なく銃をぶっぱなすのが見たかったし、なんなら撃ちあいでもして欲しかったし、それはラストの首長竜との「闘い」に対しても同様の欲求が起こった。
そして、光がさし、目を覚ます――この映画、ワンカットの中で照明の具合が変化する、というのが良く起こった――。ピアノに光だ当たるように(『トウキョウソナタ』)。
もう一点、気になるのは。佐藤健が、首長竜の画がある場所に気付いて走り出す時、一瞬ストップモーションみたく画が止まってカットが変わるの、なんだったんだろうか…。
くさすつもりは毛頭ない。この規模、東宝配給で、黒沢さんが映画を撮り、豪華キャスト、全国公開、という出来事がすばらしすぎるし、その感動は、このニュースを知った時から、いまだ消えていない。
昼はナポリタン食べた。んで、ジョセフ・コシンスキーオブリビオン』見た。

記憶の隠ぺいと改竄、忘れ去られた過去の象徴としての廃墟、主人公の導き手となる2人のヒロイン、境界線の越境による危険区域への侵犯が真実をもたらすという構図(しかもそこで「自身との出会い」を果たす)、…偶然にしては出来すぎているくらい、『リアル〜完全なる首長竜の日〜』との共通点がある。なにしろ、「Oblivionオブリビオン、オブリヴィオン)の原義は忘却、無意識、人事不省、大赦の意」(ウィキより)なんだから、ちょっとびっくりする。
まず笑ったのは、トム・クルーズVSトム。クルーズ。完全にヴァンダムVSヴァンダム…『レプリカント』かよ、と(…確かに無駄にシャワーシーンで裸体披露してたのヴァンダムっぽい)。

おまけに大量のトム(最良の人類として複製されたってことか…?いやぁ、その自負には痺れる。モーガン・フリーマンに「コマンダー」と呼ばせてたもんなぁ。逆ですからね普通)からの、爆弾持って敵陣に突っ込むという『インディペンデンス・デイ』展開。
そして、ラストの、「I'm him」と述べる、「複製」の登場…いやわかるんだけども、全然いいんだけど、…思うのは、こういうのって、アメリカとかの方がより受け容れられないんじゃないか、ってことなんだけども。倫理的に。キリスト教的に。
まぁ、全然気持ちよく終わっていない、終わらせない、という意図があるのならそれには成功しているのだけれど。幼い娘の、「あの人は誰?」という問いかけに、母親は答えられていないし。何者なのか、断定することは、誰にもできないのだから当然だ。そういった脚本に一抹の良心(というか映画的倫理というか…)は感じる。
にしても、こういうロケ地は一体どこなんだろうか。『プロメテウス』の最初の地球のシーンでも使われていたような場所だけど。
そして、ネルシャツにヤンキースキャップでねっころがるのも似合ってしまうスターとしてのトム・クルーズ(『宇宙戦争』の港湾労働者役を思わせる)。彼にはアメリカの象徴を重ねたくなってしまう。それは疲弊し、暗澹とした国家であり、同時に、湖畔の静かなロッジでの生活のような、「古き良き」理想、でもある。さらに、戦闘機でのドッグ・ファイト(『トップガン』だ、と監督は興奮したのかな…)が描くがごとき戦う存在だ。
にしても、痛めつけられながらもなぜか決して汚れないオルガ・キュリレンコと張りつめた清潔な均等さの反動のように一瞬で死を迎える(しかし…っていうね)アンドレア・ライズボロー(知らなかった…)、モニターにしか出ないメリッサ・レオ(すばらしく不気味)ですら、美しく撮ろうという気概があった(撮影のクラウディオ・ミランダフィンチャーと組んでるっぽい。そりゃあ通りで…)。
そっから表参道のエスパス ルイ・ヴィトン東京で、トーマス・バイルレの『Monuments of Traffic』展を見た。

ある物質の、事象の、存在の、最小のエレメント。それを見つけ出すため、そこに在る法則を見出そうとしても、その枠を捉える事が出来ず、別の法則性を発見してしまう。
で、渋谷に歩いて戻ってきて、ウォルター・ヒル『バレット』見た。

ジェイソン・モモアいいねぇー。言葉少なく、声量も最小限、やることはえげつなく、すばやく、反撃もさせず、相手への攻撃も半ば無意味に回数重ねる(何度も差し込むナイフ)残酷さ。さすがコナン(つまり、シュワルツェネッガーということだよね)。
対して、スタローンのアクションに統一性がない。ぶつかり合って殴り合う、かと思えば、一撃で迷いなく相手を銃殺する。つまり、敵の方がよっぽど殺し方に「主義」、一貫した何か、がある。
うーん、なんか…。もう限界か…。
まずタイトルの出方、店のネオンサインがタイトルになっている、という表現、カット変わり前に一瞬画面がオレンジ色になったり、(なんと表現するのが正しいのかわからないけど)フラッシュがたかれるように光ったりする加工、…こういうのって多分、現在だとかなり、海外ドラマに吸収されてしまっている手法だな、と。
浴場で、銃の重さについて説教くらわしてたの、『96時間』じゃん、と思わず言ってしまった。教え諭す人物としてのスタローン。
キャットストリートでDABO見て(連れている女のひと、…)、RUGGED FACTORYで買い物して(はじめて知ったけど、Free & Easyがやってるブランドなんだ)、家に戻ってきたら、なんと相澤仁美を見た。太ったおっさんといっしょだった…なにしてんだろう。まぁそれがハイライトかよ、って感じもしますが。で今調べたらグラビア復帰するらしい。まじか。