トーキョーワンダーサイト本郷に行った。
日置智也『Internal Flower -continuity solids-』を見ながら、最小単位について思う。この作品を構成する単位とは、と考えると、輪に網のようなものが張ってあるものなのか、それがもう1つの同じものと球体を共有する形で対になっているものなのか、またそれとは別に5つで1つの形を持っているようにも見えるし、というか、すべてつながっているからきりがなく、何個単位とも考えられるし、しまいには全体で1つの何かの単位であるようにも思えてくる。これが何個も組み合わさって(1つだけでも大きいのに)ものすごく巨大になっているところを想像する、とテンション上がる(とはいえ、表面上は冷静だけど)。部屋にはこの作品しかなく、その周囲をぐるぐるまわりながら見ている。しばらくぐるぐるする。形状的に、見る方向によってとらえられ方が違う。縦長の作品に対して正面に立てば、全貌を見通すことも出来ない。おまけに照明は、一方方向からしか当たっていないので、あたっている方といない方によって、視界の中の浮かび上がり方も異なる(部屋の壁はすべて白いので、はっきりとする感じがかなり強い)。つまり(と言っていいかわからない)、はっきりと一方的見方とらえ方を拒否している。ぐるぐる周りを回るだけでおもしろい、と思ってしまう。さっきの単位じゃないけど、視線がそれぞれの形状に触れ、全体をとらえようとしたり、動き回る。
1階にあったドローイング。赤羽史亮という人の作品がよかった。筆の運動が、2つのくっついた円を作り、下へ伸びていく。そして、形としては、宇宙人のようなものが出来上がっている。のだけど、その、絵の具の、キャンバスへ乗せられていく感じを頭の中で再現するように(もちろんにせもの、だけど)見ていくと、そこに画家の手の動きが重なってくる。
というか、思ったのは、鑑賞者は、その作品が作られていくのにかかった時間見ることはできない。映画や音楽や写真や小説や舞台やダンスを、故意の停滞なしに、例えば半年とか1年かけてみることは出来ない。かな多分。しかし、絵や立体作品は違う。例えば、1年間見続けることは可能だ。勿論1日1時間や2時間見て、の繰り返しということだけど。たとえギャラリーや美術館にある絵でも、制作時間分見ることのできる可能性は存在する。究極的には買えばいいし。セザンヌを買ったマティスのように。しかし、構想の時間を加えれば、それも不可能になる。例えば、写真、と思った時思ったのは、撮るのは一瞬だが、そこにいたるまでの時間、撮った後の時間、現像するまでの時間、現像の時間、も、写真の制作なんじゃないかということで、それならば、絵だってそうだから。つまり、異なった時間を流れるもの同士が、視線や耳や皮膚なんかで触れ合う、というのが、芸術を鑑賞する(鑑賞はまったく正しくないけど、総称にすぎないし)ことなんだろうか。片方は圧縮、片方は流動、とか?
肉の絵とかキン肉マンもおもしろかった。赤い目の視線、不安定さ。