『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画─セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策』(アーティゾン美術館)


ともかくまず、マティスのやばい絵(『コリウール』)を見て、もの(ここの場合はまず他の展示作品のことだけど、ほんとうはそれだけではない)の見え方を変えられてしまうような、目が改造される感じがすごかった。
離れたところから絵に近づいていくと、ある瞬間から、教会(というのも初見じゃわからない、それもやばい)の上の部分の、白い空の絵の具の塗りが、視界の中で、グッと厚くなりだしてゆく、という現象が起こってしまった。自分の運動、視界、絵画、イメージの連動。まさかと思ったが、一旦下がってもう一度近づいていったら再現できてしまって、その強度ある再現性が楽しすぎる。
そして、何度か繰り返し見に戻るたび、油絵具の質感、光沢、線のエッジの立体感、などが全て自分に迫ってきて、見ている間にそれらが変容してしまうような感覚を覚えた。
凄まじい立体感をも持ち得てる空の部分の色の重なりに、どのように描かれたのか、そしてなぜこの状態で完成とされたのか、と意識が時間を飛び越えるうちに、それとも実は終わっておらず、次にまたもう一つ、今まさに、絵筆が重ねられようとしてるのかもしれない、と思うようになる。完結しているにもかかわらず、次の、絵の外からの、筆の動きが呼び込まれる、ある種の中断性、途中であること、がそこにはあり、そしてさらに、というかそもそも、完結しているなどと誰も言い切ることができないと気づいてしまい恐ろしすぎた。
(そして今、この文章を作りながら、買ってきたポストカードの『コリウール』を手に取り眺めているだけで、この、見た時の感覚が蘇ってきてしまうのもまた恐ろしい)

絵画という一見静止している物体には運動が潜んでいる。そして何者かが見ることによってそれが明らかになる、暴かれる、作動する。
モンドリアン(『砂丘』)は、絵がキャンバスから盛りあがってきて、額縁からはみ出してくるかのようだったし、カンディンスキー(『3本の菩提樹』)は逆に内側に凝縮されていくような動きがあった。しかし絵のサイズ自体が変わるわけではなく、凝縮するという動きだけが存在するような感じ。アクションだけがあり、その結果は現象されない。
セザンヌなんて、超動く、としか言いようがない。「超動く絵画としてのセザンヌ」というフレーズが頭から離れなかった。『鉢と牛乳入れ』は完全に鉢が動いてた。絵が動いた!ワッ、びっくり!というドッキリかと思うくらい。それに比べて、ってこれは今回禁句ではあるのはわかってはいるけれど、セザンヌの部屋のスナップなんて、どうでもいいということの良さすらないくらいどうでもいい。

そして、絵画は、見ているうちになんだかわからなくなる、わからなさに到達するまでのスピードが、写真と比べて早い。逆に写真が遅いということかもしれないが。このスピード、というかこの、見るときに経過する時間は、見る、という行為の中に嵌め込まれている、象嵌されている。

あと、今回は、これはもしかしたら写真と併置されているからかもしれないが、やたらと絵画の縁が気になっていた。額縁と絵画の際のあたり。絵の外と中の境目ないし間は、外なのか中なのか。どこまでが絵なのか。絵の具が塗られていなかったりすると(そもそも塗られていなければならないなんてことはないけれど)、外だからキャンバスがむき出しでも構わないとしているのか、と思ったり。意識として、または、物質としての絵画の外、とは一体どこ(まで)なのか。

平面、とか、奥行き、とか、そういう既存の空間の捉え方から見る人間をどんどん離れさせるものとして機能する絵画、と比べると、模様、patternとして、形状しかない、併置しかない、その写真の中で起こっている現象しかない、という極めて研ぎ澄まされ、削ぎ落とされた「限定」性の写真である柴田敏雄の作品や、写真の表面に、パズルゲームのように、縦や横に、構造的というか偶々その形状をとるように、そしてその偶然性が目を眩ませるように、ものが積み重なっていると感じられる鈴木理策の作品、これらの写真は、これはもう何周もまわってではあるけど(そしてこういう注釈自体が不毛でもあるけれど)、既存の、平面という捉え方しか宿していないなと思ってしまった。それが悪いというわけではなくて、絵画があまりにおかしい、豊かすぎるんだろうけど。