「丸山直文展―後ろの正面」を目黒区美術館で見た。
見ながら色々考えてたんだけど…作家のインタビューと制作風景の映像を見てたらどうでもよくなった。面白くて見入っていた。まず、自分で撮った写真や雑誌に載っていた写真などを、最初の題材として選んで、それを、まずは小さい紙で、さまざまな形でくりかえし描いていって、最終的に決まったものを、大きなキャンバスに描いていく、という一連の流れを説明しているのを聞いた。その中で、その小さい絵をどのように変えていくか、例えば、岩壁を描いているとき、どう変化させていくかを説明していた。実際に大きなキャンバスに写していくとき、小さいものをそのまま大きくしていくわけではないらしい。その大きいキャンバスへの描き方も撮られていた。絵の具を、点々と、小さい絵を見ながら、キャンバスにおいていく。その動き。そして、混ざり合わないように、一つの色を描くごとに乾かしていく。「待っている時間や考えている時間の方が、実際に手を動かしている時間より長い」と言っていた。
ある一つの絵、水に半身を浸している人物(上半身が水面に映った時のように、反転した上半身がその下にある)と、水辺の植物らしきもの、が描かれている絵について、「人物の方に注目すると、植物の方がおかしく見え、植物の方に注目すると、人物が変に見える」と言っていた。それとは別に、でも同じような感じで「影」について考えていた。
「garden」というシリーズでは、距離があって小さくしか見えない人たちと、そこから伸びる影があって、その影は濃い緑色で描かれている。そして、絵には、おそらく木々から伸びている影もあって、木はなく影だけで、人の大きさから比べると、とても大きい。その巨大な影は、やはり濃い緑色だ。それはどうしても存在感があって絵の中でも目立っていて、見ていると、ぼんやり水でにじんでいると言うよりは、刷毛かなんかで、ぱっぱっと、色をまわりにすこし広げたような、ちょうど少しとげとげのようになっているというか。その、色の軽い広がりが、何本も、左から生えているような影にはあるのだけど、その何本もの影のあいだには、当然空間があって、影と影の間が大きく開き空間も大きくある箇所もあれば、すぐ隣りあわせで、空間が狭い箇所もある。で、その広い空間に接している色の方が、狭い空間に接している色より、とげとげが強い、というか、強く色がにじんでいる、ように見えてくる。色は、広い空間の方に広がろうとしているのか、と見ていると、だんだんそれらは、岩、ないしこけ、ないし苔むした岩、のように思えてくる。じわじわと、少しずつ、コケがひろがっているような。しかし、属している母体から完全に離れることはできない。…、とここで、これが影であることを忘れていることに気づく。なぜこれを影だと思ってみていたんだろう。とここで、それは、人から伸びていたからだと気づきそちらを見ると、それは、最初大きなコケにひきづられるがだんだんと、影に見え戻ってくる。
「meltwater」という、山を描いたシリーズで、これは二点あったんだけど、片方は、山が連なっているだけで、その山の稜線というのか、影が落ちている部分に濃い緑色がある。それの色のにじみ方は、「garden」とはまた違う。そして、もう一点には、小さく人がいて、影が伸びている。
濃い緑色はなんなんだろうか。影、であるもの、であり、そうでないもの。

絵を描くか描かないかどちらがいいのか。どちらが正しいのか、どちらがあっているのか。描かれるべきなのか、描かれてはならないのか、ということを、「room」「face」というシリーズを見て考えた。前者の中には、もう、描かれているのと描かれていないのの境が非常に曖昧な作品がある。ほぼ、描かれていない、…しかしそれは嘘で、やはり描かれているんだけど、しかし描かれていないともいいたくなるような描かれていなさだった。それが、描かれていないことを志向しているのか、それとも描かれていることで絵で在ろうとしているのかわからなくなってくる、というかそれもうそだから正確に言えば、わからなくなりたくなってくる、ということだろう。

「appear」という作品。これは、水面に浮かぶボートがあり、後ろの木が生えていて(関係ないが、やっぱ関係あるかもしれないが、これらの植物も濃い緑で描かれていることが多くて、だから、「garden」の巨大な濃い緑の正体がますますわからなくなった)、なんというか、湖と森、みたいなことをなんとなく連想した。そして、そこには、空から、無数の様々な色の形が、もう「降り注いでいる」という感じに描かれていた。それを見たとき、前に、表参道の写真展で見た写真で、プールの中が撮影されていて、そこに、赤い点があったことを思い出した。それは、光の解像度、というのかどうかわからないけど低くなっていて、つまり、光がバラバラになってその要素の一つとして赤い色が一点現れてしまっていた。それを思い出して、この、色の形たちは、光、日光がバラバラになっているものなんだなと思った。あとで、作家のインタビューを見ていたら、細かい部分は忘れたけど、あれは光だ、的なことを言っていた。

「color of river」か「river of color」か忘れてしまった作品。これは、周りの風景と水面に浮かぶボート(一人しか乗っていない。これはカヌーなのかカヤックなのか)と、水面に映った反転したボートと周りの風景、が描かれている。そのすぐ下に、これもほぼ同じ構図の絵がある。だが、違う点がある。まず一つは、絵の上下だ。上の絵は、上に本物、下に水面に映ったもの、という位置になっている。つまり普通の状態。しかし下の絵は、それが上下逆になっている。下に本物がきて、上に水面がある。それは、水面と本物の絵のぼやけ方の違いからわかる。そして二つ目は、おのぼやけ方だ。上の本物と、下の本物では、ぼやけ方が違う。それらを比べたとき、下の本物は上のものが水面に映ったもののように見えるくらい。実際一瞬上の本物と、下の本物が、本物―水面の関係にあるのかと思った。しかし、鏡に映ったように逆になってはいなかったので、違うとわかった(このしばらく、上下の関係がわけわからなくなるところもおもしろい)。下は下で、本物―水面の関係が出来ている。ぼやけ方の程度を思い出してみる。はっきりしている順に並べると確か、上の上(本物)>下の下(本物)>上の下(水面)>下の上(水面)だったと思う。上の絵と下の絵の関係(上から下へぼやけて言ってる、から、本物から、水面(偽物?)への移行と考えられたり、もちろん同じモチーフの変奏とも考えられるし、同じあるものを見ていても人によって見え方が違ったりするし、いやそうじゃなくて、同じものが、光の揺らめきや目のやり方によって、微妙にそのとらえられた姿を変えていく様子なのかもしれないし)、本物と水面の位置関係(上と下とでは逆になっている、ため、一瞬、水面がどこなのかわからなくなる。正しい水面はどこか?そんなものない、とも思える)。なんとなくだけど、水面に映った像は、本物に属している(本物を映している)、のだけど、こうしてもう一つ同じようなしかし違う構造の絵を下に持ってくることによって、その関係が壊れているんじゃないだろうか、と思った。映ったものが、映されたものであり、また映ったものである。そのどちらにも確定できない状態、というか。どちらが本物かなんてそもそもわかるわけないのだ、ただ、文脈的、というか、常識的に判別しているにすぎないし。水面や鏡が、そこに映るもの―映されるものの関係をつくってしまう、のだけど、それは、方法とかによって壊すことも出来る。し、そもそも、最初からそこにはそんな関係などないとも言える、のかもしれない。水面・鏡を間に、ものが二つ対峙している状態、なだけなのかもしれない。いやでも、それは、やっぱりただの水面や鏡だけではだめで、切り崩すなにかが必要、…。

「breeze 2」という作品にも、繰り返しがあった。この場合一つのキャンバスの中に、同じ家が二つ上下に、反転してるわけでもなく同じ構図で描かれているのだが。これは、水面・鏡的な繰り返しじゃなく、視界の中でみられるもののぶれ、というか。