高橋悠治 コレクション1970年代』を読み終えた。方法、戦略、大衆との共有、非分断、新しい歌と詩、敵のものを自分たちの武器につくりかえる、失敗から学ぶ、生活の重要性・生活から切り離されてはだめ…
《かれは芸術表現の自由を追求する。その自由こそが、抑圧を反面で可能にするだけでなく、抑圧そのものであることを理解しない。》p270
《活字の詩ではなく、リズムをもったことば、引用することのできるような、具体的なイメージに結晶した思想としての詩であり、リズムと、ことばの身ぶりをメロディーの運動線として具体化する歌だ。》p287→《何がださいのか、基準すらもてないほど知らなかったから、まず歌詞のようなものを考えたんだけど、うまくできなかった。多分石黒が言わんとしてたのは「音楽的にださい」ってことなんだよね。声に出して言うことなんだから、棒読み調じゃないものを求めてたんだろうな。それに表現活動である以上、最低限、「ださい/ださくない」センスを持ち込みたかったんだよね。デモに参加していくなかで「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」っていうフレーズを耳にしたんだけど、そのインパクトを自分なりにシュプレヒコールとして練りあげていったのかな。》(『論座』2008年10月号のECDの発言、p131)
《ねむりこませたり、うっとりさせたり、何となくその気にさせるごまかしではなく、歌は決然と立ちあがらなければならない。歌は現実の惰性をたちきるものだ。》p313
《イラン脱出に成功した政治犯がイギリスで書いた本には、拷問室の電話番号がのっている。そこにかければ、だれでも二十四時間中つづく悲鳴をきくことができる。》p265-266
耳だけではなく、全身で、身体性を持って(それは社会/生活における身体も含む)音楽を聴くこと。p323
《体系ではなく、解決でもなく、提出されたのは、無法にさえ見える、単純な方法にすぎなかった。》p241
とまぁ、引用するとこが多すぎて意味なし。

団地ともお』9巻がすごい。ともおの部屋にかつて住んでいたと思われる人の独白(心象描写)が現在の団地の様子と微妙にリンクしながら語られていくことで、空間や時間を超えたつながりのようなものの存在をほのめかしながら、しかしもちろんその人物の語りも、ともお母の言葉(「前に誰が住んでたの?」「知らない」)も、そういった存在を否定するが、でも…というのは『残響』っぽくてブックフェアのリストにのってたのもうなずけるし、ともおの、星と星の間にある闇こそ主役だ(『題と解』の本の新しいやつで、千原ジュニアが、誰かに「自然の色にないものを身に着けてはダメ。黒いパンツとか」と言われ、「あるやん。夜は黒いやん」と思った(でも乗っかって赤いパンツ履いてる)、という話が載ってた…しかし『題と解』は最高だ。すげー笑った。Jの大喜利方法論もちらっとあったし)という発言や、気球とヨットと団地の部屋という父親の遺産に対する「親父はこの世界を(遺産として)のこしていった」という考え、とか…。つって9巻かどうか疑わしいが。ともおが、シンプル=
美に目覚めるのとか…が夜の話か?覚えてない…
ベルクソン『意識〜』を読みだして、ちょっとフロイト『自我論集』を読んだら、似たような領域を語っていた。外部からの刺激と欲動…とらえ方…質と量…
フロイトの、内部刺激としての欲動欲求を、ベルクソンの言う情緒的感覚として見る…同様に、外部からの刺激を、表象的感覚に…前者は、外部の運動によっては解消できない、違ったなにかによってしかできない(だから情緒のなかでごまかす?)。後者は、つながってる運動によって解消できる。…いや、表象的な刺激は表象によってとらえられ(表象によって拒否され)、情緒的な刺激は、情緒によってとらえられるがはねかえせないので、表象だ、と偽の認識を自らに与えて処理する……多分違う。