鈍な自己愛、というのは、自分に対して興味関心があって、まぁそれは別に多かれ少なかれあってもいいし(もちろんなくてもいいし)それについてはとやかく言わないけど問題は、そうした興味深さを持っている自分(と、少なくとも自分ではそう思っている)に、当然他人も、興味を持ってくれるにちがいない、こんなに愛らしい私を、他人も愛してくれるにちがいない、というような、なんというか、こちらがどう思ってるか考えもしない(いやもちろん、自分と同じように思ってる、と思っていて、結果的にはそれ、何にも考えてないのと同じじゃん、っていう)怠惰さ、のわりには他人を気遣うふりをしてみる無自覚の善意、ずるがしこくわざとらしい無邪気さ(のアピール)、が一面にあるものだろうか。
テンプレな言い方、フレーズというものがあって、それは例えば「よそ行きの衣装を脱いで自分に帰ることの出来るくつろぎの空間」「創造の場として活力を充電する空間」「〈かけがえのないガラクタ〉」(「私のたからもの」という言葉に通ずる不快さがある)「自分流」「「テレビ」より「映画」に熱い視線を注ぎ、注いだ熱い視線の分だけ「映画」からお返しを受けて、自分の感受性や思想や、時には人の愛し方、恋人への対応、ファッションセンス、男同士の友情(義理や人情も、です)、それに何人かの映画作家の仕事を通して、自分の信じる仕事への愛や、プロとしてのスキルを持つ重要さ等々のことを学んだのでした。」というEさんの言葉のセンス、というものが、自分ではオリジナリティーあふれる言い方のように思っているけど、実際は、そんなことはなくただの、誰かのものにすぎなくて、それは別にいいとしても、その、誰かの言葉をしゃべっている、誰かの言葉をしゃべるしかないという自覚がまるでないのが腹が立っておもしろい。
あと、アキコさんとKさん夫婦が訪問した際の、Eさんと愛子さん夫婦が出してきた(愛子さんが作った)メニューが…もう、やばい。おかしくて(それと比較して、杉田さんのスパゲティ・ミートソース、チーズ・クッキー、Mさん(を真似したアキコさん)のカレー炒飯(しかしアキコさんは、「カレーじゃないカレー味のもの」に「カタクナな偏見」を持ってるわりにはカレー炒飯が好きなんだな…矛盾してない?)はうまそう)。まぁここは、自己愛むき出しのアキコさんの手紙で、さらに自己愛むき出しのEさん夫婦が描写されてるんだけど、その描写は、若い男にはできないものに満ちていて最高。そして「よゆう通信」は、Eさんのそれだけじゃなく、アキコさんの手紙もそうだろう。でもアキコさんは、一概に、鈍、だと言える感じでもないのが、またおもしろい。なんというか、どっかで、自分に対する無関心もある、というか。無自覚に人をイライラさせる感じも当然もちあわせてる。


『千のムジカ』読み終わって金井美恵子『快適生活研究』を読み出した。
《(…)杉田さんは、不意に、三日前が息子の命日だったのを、自分も夫も忘れていたのに気がついて、今までそんなことなかったのに、と、どきっとして、そのことを口にすると、Mさんは、それでいいのよ、命日を忘れたって、ちゃんと死んだ者のことは覚えてるんだから、と言い、杉田さんも、そうだな、と思った。》p112
《でも、なんとなく、このマンションの部屋に、やっとなじんできた気持が、少しゆらぐような気分なのよ、前の住人のことを考えるとね。》p65
なんというか、こういう文章に突き当たると、どきっとするけど、おおげさじゃなくすぐすぎさっていく。