新宮一成ラカン精神分析
《人間は、己れの経験を示す言葉(シニフィアン)を駆使して、論理の世界を構成し、ついには自分自身を示す言葉(シニフィアン)を求めるに至ったが、この自己言及の関係だけは、論理的に保証されなかった。この部分に、言葉ではなく対象aが生じ、対象aが他者の欲望の対象であることにより、辛うじて、我々の経験を示す言葉(シニフィアン)の世界の、有意味性が保たれているのである。対象aは、そのつどいろいろな形をとるが、そのどれもが、音楽地獄の亡者たちのように無意味に音として鳴らされ続けるような、根源的な受動経験を体現するものである。》(p132-133)
対象aは、個別存在である我々を、普遍存在になった我々が見るというやり方で、つまり弁証法という一種の分身の術を使って、我々が我々自身を表象したことの結果として現れるものであった。》(p145)