新宮一成ラカン精神分析』を読んでいる。自分の真実存在を証明する、自分が何者であるかを語る、ことは、本質的に不可能、である。それは、他者によって語られている、欲望されているという、他者の行為によってでしか可能ではなく、しかも、それの意味を知ることはできない。ただ、意味が解らない、語りを受けるだけの受難の存在であることだけしか、自分であることはできない。語りだせばそれは、自分ではなく他者の言葉を語ることになってしまう、というか自分より先行していた家族とか、血統とか、言語の側についてしまう。…ってこと、だと思う。