トニー・スコットサブウェイ123』を渋谷で見た。
オープニングがジガって時点で、もうやられてしまったわけだが…。そのオープニングは少ない情報量で、タイトルが出て、さっさと本編がスタートしてしまう。
指令室、ぺラム123の車内、外、をすぱすぱと切り替えながら(それらの内部でも激しく切り替わりながら)ストーリーが進んでいく。テロップが、動きのなかで処理される。そしてまるで、こっちの意図を先取るように「どうしてヘリを使わないんだ?」という発言の後、満を持して(ある種無理矢理)ヘリが飛び立つ。とまぁ、よく知っている最高な映画になっている。
犯罪における交渉、が登場する映画なので当然なんだけど、会話に重点が置かれている。口汚い同僚、一言ぼそっと突っこむおっさん、市長と部下の「それほど?」「いい女だ」。それともちろん、ジョン・トラボルタ演じるライダーの喋り。こういう状況(の映画)では、犯人が主導権を握り、その場をコントロールする(それと、交渉側との、支配者の立場を巡る争い、というのが行われるんだけど)。名前(と出自)を訊くこと、が支配の一つの方法だ。そして、その名前及び出自に見合った罵倒をしなければならない。そして、自らのいる運転室を告解の部屋としたライダーは、デンゼル・ワシントン=ガーバーに逆に告白させることで、指令室を告解室に反転させてしまい、そうすると、そこでは、偽りを述べることが許されない。だから嘘をつけば、誰かが死ぬわけだ。
告白をせざるを得なかったガーバーは、汚辱に塗れた人だ。自らの過ちをさらけ出し、辱められながら、どんどんと道を踏み外していってしまう。…しかし。
こうして考えても、この映画は、まるで荒廃していない。ジョン・トラボルタのキャラクターもあるのかもしれないが、ライダーには、狂気ではなく正気の雰囲気がある…あんなことまでしているのに。そして、乗客、ガーバー、市長らの描写など、終わり方も、どこか健康的ですらある。遺恨が残っているのに全員で無視している、という感じ。
なにかそれは、この映画の様々な意味不明さと通じているような気がする。伏線のようでそうでない描写や、何なのかわからない、「もの」としか言いよう物―乗客たちや(ビデオチャット、元海兵隊員、「piss」)、絆創膏、コーヒー、二重底と目印、ミルク、ハードル、輸送、ブルックリン橋を徒歩で行くこと、Made In NYのタクシー、ネズミ、など―には、目的があるのだろうか。笑いか、深読みさせるためか(告解も、「運命」の多用も、これっぽくはあるのだけど…そうじゃないような気もするし)。
健康的(それは真の健康ではなくて、不健康さを無視することなんだろうけど)=スピード・素早さ・効率とするならば、この約100分の映画のためとも言えるのだけども、それを追求した結果で、ノイズが残るというのはやはり面白い。走り去る電車に吹き飛ばされる書類、や、サンドウィッチですら、そういったものととらえそうになるが、これらは、そう考えるよりも、何か、人間やそれにまつわる事象を、「つい」生き生きと描いてしまうすばらしい手癖、であってほしいしそうなんだろう。