チェーホフ『子どもたち・曠野 他十篇』読む。
《エゴルーシカが二人の寝顔を眺めていると、ふいに低い歌声が聞こえてきた。どこか、そう近くないところで女の人が歌っているのだったが、それがどこなのか、どっちの方角なのかが、なかなか掴めなかった。歌声は、低い、ゆっくりとした、物悲しい、まるで泣き声のようなものようやく聞き取れるくらいのもので、右からのようにも左からのようにも、天上からのようにも地下からのようにも聞こえ、あたかも曠野の上を目に見えぬ精霊がさまよって歌っているかのようだった。》(「曠野」p206)
《こうして一時間、二時間と馬車でゆく……。途中、寡黙な老人のような古墳や、誰にいつ据えられたともわからないせきぞうに行き合ったり、ひっそりと地面すれすれに夜鳥が飛び過ぎたりするうちに、少しずつ、曠野の伝説や、出会った人びとの話や、曠野そだちの乳母から聞いた物語や、この目で見、心に感じたあらゆることが思い出されてくる。そういうときにこそ、虫の声、怪しい影や古墳、深い空、月光、夜鳥の飛ぶことのうちに、そして見聞きするあらゆるもののうちに、美の極致、若さ、力の横溢、生への渇望を感じ始める。心は、すばらしい、厳しい風土のふるさとに応えて、曠野の上を夜鳥に混じって飛んで行きたくなってくる。この美の極致、みなぎる幸福感のうちにも、人は緊張と弱寥とを感じるに違いない。まるで曠野が孤独であることを自覚し、自分のゆたかさもインスピレーションも、誰にも歌われもせず誰にも必要のないものとして空しく滅びてしまうのを意識しているかのように。喜ばしい轟きを通して、人は曠野の物悲しい、絶望的なまでの、歌い手はいないか、歌い手は、という訴えを聞くかのようだ。》(「曠野」p253-254)
「曠野」は、主要な筋がおぼろげなまま進行していく。そこでは充溢した脱線だけが生き生きと現れてくる。
例えば、後者の引用。一つの短い文章、読んでしまえばすぐの一つの段落の中で、感情が豊かに変化していく。静かに曠野の描写から始まり、生や美について語ったかと思えば、いつの間にか絶望にたどり着いてしまう。主体も(おそらくは)エゴルーシカ、人間一般、そして曠野それ自体、が入り混じっている。なんていう充実した文章なんだろうか。異様なまでの充実。
ブーレーズ作曲家論選』、キプリング『少年キム』買った。読めんのか…せめてキプリングは読みたい。