ミュンヘン』について。
この作品で「家」や「祖国」、「家族」、「帰る場所」、「属する組織」、「民族」、といった幾つかの意味を重ね合わせた言葉として登場する“Home”は、しかし、そのどれも不安定になる・徐々になっていってしまう人物たちによって使用されることによって不透明になり、特定の・固定された意味を剥奪された状態になる。エフライムがアヴナーに“Go home”と言う時、それをアヴナーが拒否する時、彼らの言葉の指し示すものは何か。
モサド選抜チームの男たちが、異常な環境に長期間おかれ続けた時、その精神が狂っていくのと相まって、「ずれ」や「逸脱」が生じてくる。
彼らは最初から一貫して、「本筋」のみを追い求めてきた。標的のみしか殺さない、という誓いを立てて。
しかし、事態が進行するにすれ、例外が次々発生する。あれだけ、標的の娘を殺しかけた時に緊張していたにも関わらず、次第に、巻き添えも発生せざるを得なくなる。ターゲットの後任、家族、護衛、関係する組織の人間、…そして政治的にはミュンヘン虐殺に関係ないオランダ人暗殺者や少年兵までも殺すことになってしまう。彼ら彼女らは、無論当初からの目的ではない。
そうして本来は、殺す側―殺される側の一方的な構造であったはずが、複雑化し、容易に反転可能な構図であったことに気づくことで、アヴナーたちは追い詰められる。自分たちが使うもの(爆弾や「パパ」)は敵も使うし、だからこの世界に安息できる場所などなく、クローゼットで寝るしかないのだ、ということに。
そしてよくよく鑑みてみれば、彼らは最初から例外と化していたのだ。誰も知らない、どの団体にも属していない。だからこの経緯は必然だったのかもしれない。
そして食事のシーンが重要で素晴らしいのは、そこが数少ない一時の帰属の感覚を味あわせてくれる時間だったからじゃないだろうか。
セックスの最中にアヴナーの目をふさぐ妻(しかしマシンガンの閃光はその暗闇を引き裂く)や、犬を連れたルイと並んであるくシーンなど、はっとするカットは数多くあった。