トム・ティクヴァザ・バンク 堕ちた巨像』をDVDで見た。

ナオミ・ワッツ…くそっ、きれいだな。
この映画を見た人なら誰でも言及するであろう、グッゲンハイムでの銃撃戦を見ながら考えた。銃を持った男が突き落とされ、そいつが、下まで落下し、縁にぶつかって床に落ちるところまで、の部分や、サリンジャー捜査官が、天井につり下がっているモニュメントを撃ち落として、それが下にいる敵に当たる瞬間、を、カットを割らずに見せていて、むろんそこではCGが使用されているんだろうけど、それにかかるコストや労力(カットを割って、その部分を見せない方が…という意見もあったろうし)と天秤にかけて、ワンカットを選択した、というだけで、――それが、会話シーンなんかをワンカットで、というわけじゃない――、この映画を支持したい。
冒頭の、路上で吐瀉物まきちらして死ぬシーンや、弁護士の車がトンネルから出てこないところ、遠方からの狙撃、などなど、人が死ぬ描写がすばらしくよくできている。脱線してさらに言うと、カメラワークが良くて、ビルの外観から部屋へ、とか、空中から車を追って、とか、決して力入れて撮っているというわけではなくさらっと映されている感じなんだけど悪くない。
つまり、何が言いたいのかといえば、映画で見たいものは、こういうものなんだということ。ただぐろいだけでもなく、しかしひよったものでもなく、遭遇不可能なもの、見たことのないもの、を見せる、ということ。しかし、見せるものと見せないもののバランスは重要かと。そこが映画と映画でないものの違いで、だからといって、後者が前者より劣るかと言ったらそうではないので、そこが難しい、と、なんとなく『トゥモロー・ワールド』思い出しながら考えた。あれのラストって、船に乗って逃げていくんじゃなかったっけか。『回路』みたいだ。
にしても、この映画の主人公は、人の死に立ち会いつつも、決定的瞬間は逃し続ける(自らその瞬間をものにすることができない)。最後ですら、あれだし。事件が終わった後に検証し、思い出すことしかできないのだけど、「わからない」とサラっと言ってしまうのも、旗を指して弾の軌道を見るのも、すごいぐっときた。そのずれや後追い感が、現実、ということなんだろうか。
















住宅街の一角のなんとも言えない古さの民家とか見ると、『呪怨』ってほんとすごい映画だな、と思う。