東浩紀『一般意志2.0』読み終えた。
文句をつけたり、論破しようと粗を探したりすることが不毛に思える明快さ。
信じられる、賭けるべき一極がないからこそいいとこ取りをしたいということ。
人間は、旧来の意味においての人間であることをやめる。
統合される自意識はなく、ひたすら瞬発的な反応で、情報や快楽を取捨選択していき、その無数の選択の集積にこそ、自分、がある。この時点で、この「自分」は今までの自分なるものとは、まったく違うものになるだろう。一時的な自分が揺らめきながら見えているような。
無意識により形成される自身、により形成される集団無意識、はもはや括れるものではなく、ばらばらのまま垂れ流され続ける(個人の枠組みは超越して)。むしろ何かを括るものである。でもそれは、ぎちぎちにおしこめるものではなく、ゆるゆるの型、である。
それが正しいのか、はよくわからない。その型によって、左右される考え(例えば政策)や人々(例えば政治家)、が善きものであり続けられるかどうかは何の保証もない。下手したら普通に戦争しそうだし、死刑だって選択される。いやこの2つが善きものか悪きものかなんて判断できない。すべては相対。
そして次第に均一化、平均化してゆき、突出はなくなるんじゃないだろうか。その瞬間飛び抜けて、次にはもうひっこむ、という動きが繰り返される。
そうすると、どうなるのか。東浩紀が、かつて『東京から考える』で、下北の再開発に触れ、すべての人々に優しい町造りを進めて行けば、都市は同じようなものになってゆく(段差はなくなり、「わかりやすい」町になる)というようなことを述べて、再開発反対のどうでもよさを示していて、いやーなるほどそうだよな、と思い至ったのだけど、それと同じことが、すべてのフェーズで起こったとき、どんな世界がたち現れるのか。それはユートピアなのかディストピアなのか。『2027 ボヤボヤしてたら、すぐ やってくる。2027年のお話。』という本のなかに、未来のある若者の姿を描いたショートストーリーがあるのだけど、それと、この本の終章で登場する若者は、よく似ている。その姿が悲惨なのか幸せなのか、曖昧なままになっているところも含めて。
繰り返し言うようだけど、固有性は確立され強固なものではなく、流れのなかにあらわれては消えるものでしかなくなる。それはつまり、人間の中でしか(しかも、かろうじて)存在し得なくなるということなのかな。
言いたかないけど、文化は?っていうことなんだよな、要するにさ。
気になるのは、ロバート・ノージックと、リチャード・ノーティ、クリストファー・アレグザンダー
西炯子娚の一生』4巻(ってなんすかまじで…読んでしまったけど。こういうのりが、二次創作っぽいなぁと思う。よしながふみとか。でも何が好きなんだろと考えたときに、黙して語らずの描写だと。それとこの続刊は相反してないかと…そこまで深くはないが)と、蓮實重彦夏目漱石論』買った/達郎のベスト明日か/「虹」の難解さと「glory days」のわかりやすさ、の対比が今のくるりを語っている/それにつけて、向井秀徳の、死者を(オバケを、幽霊を、サイボーグを)召喚する語り・歌はおそろしいなと思ってしまう。『幻とのつきあい方』?/キングオブコントっすか…はぁ/