阿部和重ピストルズ』読み終えた。
最後の「血の日曜日」事件が若干駆け足だったような気がする。事件は違うけれど、この部分を拡大して細部まで描けば『シンセミア』のようになるのではないかと。しかしそれを意図的に避けている。だから蛇足感すらある。
というか、語っているモチーフは非常にシンセミア的なのにも関わらず、語りがそうでない(「七人の少女」「約四十人」の語りがなかったり、つまり片寄っている=石川ーあおば視点しかない)し、さらにいえば、この小説の基調であった慇懃なあおばの語りが完全に排除され、つまり過剰な丁寧語や比喩、固有名詞による遅延、がなくスピーディーに事件は展開してゆき、それは、石川のそれとも異なる、何者かの語りである。
いやまぁそんなこと言ってはみたが、記述者は、そっけなく、これまで異なる叙述の仕方についての弁明を冒頭で行っているのだけれど、それでもひっかかるのは、その、見てきたような、それでいてやけにエモーショナルな部分もある、いわゆる「エンターテインメント」性だ。
ひたすら同じことを、言い方を変えながら、繰り返し、その合間に、時には意味を持たない悪態を挟みつつ、過剰に回り道をしながら(聞き手の先手をとりながら)、装飾を付けつつ(それは華美で豊かなものではなくむしろ聞けば聞くほど殺伐とするような「乾燥」した比喩、ボキャブラリーの豊富さより欠損を示すような)述べ続けるという阿部和重の会話文は、今回もちらりと存在するけれど、それも、ある意味、速度への抵抗なんだと、あおばの語り口を反射させることで認識した。同じことなのかも、ある意味。
だからこそ余計に、不思議に思える。つまり、『シンセミア』で、あれほどの分量を費やし描いたものとほぼ同等のことが発生しているにも関わらず、このシンプルさは何なのか。ここに、シンセミアでもピストルズでもない、第三の語りが立ち上がっている。
うーん要するに、ここが神町サーガ第三章の舞台となるのかな、でもそうだとしたらちょっとなぁ…っていう。
そして、さらに気になるのは、今作で、完全に超常現象を、存在するものとして描いていること。しばらく阿部和重を読んでないから確証はないんだけれど、そういうものを(匂わせたことはあれど)すり抜けて書いていたはずなのに、ここまでど正面から登場させるとは。アメリカ超能力部隊的なものを真に受けてそのまま出している。疑わしいと思わせるような書き方すらしていない(まぁ厳密に言えば、石川=狂人の語り手、と回収できそうな風もあるっちゃあある)。第三章もそうなるのか!?という意味では目が離せない。『クォンタム・ファミリーズ』とか『ディスコ探偵水曜日』思い出したり。
終わりかたの不穏さとか、LSDシートとか、ぐっとくるものがあった。
あと帯ね。蓮實さんと伊坂幸太郎が並んでいる。おまけに嫁も。
一日引きこもってたら、外がめっちゃ寒くなっていた。完・全・に、夏終了か…/特撮博物館見に行かないとだめだ/