日高優『現代アメリカ写真を読む』を読んでいる。
ウォーカー・エヴァンスが編纂した『アメリカン・フォトグラフス』の、写真「たち」(1つの作品ではなく、恣意的に並べられた作品群)において、人々の姿は、差異化と均一化の間を往還する。その中で人間の固有性がたち現れてくる、ということは、それは固定不可能な、次の瞬間には消えてしまうものであるということだ。
写真は、個を確立する、ということは、抑圧の対象として捉えるということでもある。それは証明写真において顕著てある。
だが、その強権的両義性にして一元性を、「複数」が突破する。複製すること、リテイクの積み重ね、連作、枠組みの中の多面性、共存、反目、によって、「単一」は揺らぎ、動きが発生する。それが膨大な量になれば(1秒を24枚で表現するくらいに)、ムービーとなる。
写真や映像は、人間のそれでは実現し得ない視界を存在させる。見えないはすのものが見え、見落としていたものを掬い上げる。それは、異常なまでに均質に、すみずみまでピントが合った風景写真だ。
発見であり、記録であるその風景は、無論、存在しないものでないし、その場にいたとして、視線を浴びせているもの、である。それが、無意識である、として…と進めていくのが『一般意志2.0』、「民主主義(デモクラシー!)2.0」だった。
ローティ、だ。間違えた。
ボーン・レガシー』見る一応。
前のアルバム聴いてたらベストいらない気がしてきた。