サム・メンデス『007 スカイフォール』見た。

少々、誘導されてる感があるのだけど…、まずは、鏡。
それは、反転させるものである。
ボンドが撃たれた傷口を見るのは、彼が洗面台で確認している際である、がゆえに、その後、シルヴァがその傷を晒す時、スクリーンにおける位置が逆転する。
厳密に言えば、これらのシーンに先行して、ベッドに横たわるボンドの身体に、ほぼ治癒しているそれを見てとれることもできているのだが、混乱が生じる。それは、二つのカットが、ボンドを含めた同じような構図になっているからである。
相対する、という構造において、鏡(に映るボンドの姿):ボンドが、シルヴァ:ボンドとなる。
ここで、もうひとつ。鏡とは、複製するものである。
金髪の二匹のねずみ、元スパイと現役スパイ。互いが互いをなり得た自分、そうなったかもしれない自分と捉える。シルヴァの語る新しい犯罪ビジネスの凡庸さはどうだ、彼もまた、「古い」人間なのだ。何よりも、その行動原理は復讐なのだから、なんというold styleだろうか。
彼らは相似形を成し(しかし鏡を介しているがゆえに傷の位置、銃撃の跡と溶けた上あご、は逆なのだが)共食い=自分殺しをする。氷の張った池に落ち、そこから上がってきたボンドの服は、濡れて黒く見え、シルヴァのコートの色と一致する。
ボンドガールという、007とヴィランの両方に因縁深い存在、両者から同一の距離を持つ女性(今作品では、両者を同じ境遇に追い込むものとして在る)は、ここではジュディ・デンチ=Mなのだ(ベレニス・マーロウは早々に排除されてしまう)。だから彼女は終盤の銃撃戦にも参加してしまう。
…なぜ、誘導されている、と思うのか、と言えば、オープニングタイトルで、こうしたモチーフ(鏡、複製、ボンド=シルヴァ、自分殺し)を登場させているからだ。
ではもうひとつ。鏡とは、反射させるものである。それゆえに、見えにくくするものである。
上海の高層ビルでの格闘。ここのシーンの美しさは尋常ではないのだけれど(ビルとビルで見つめあるカットも良い)、ここでは、部屋内部の無数の硝子が周囲を映し、反射させ、ボンドの姿を隠してしまう。そこから派生させてしまうが、シルヴァを捕らえているガラス張りの部屋の入り口は、スイッチ一つで曇り、向こう側を見えなくしてしまう。
ボンドが、南の島で、MI6のテロを知るのは、鏡越しのテレビ画面である。さらに最後の「落空館」(さながら「嵐が丘」と「鶫が辻」のように称してみたい)での戦闘では、反射によって敵の目をくらます。
で、話は変わって、山本現代で小林耕平の個展『あなたの口は掃除機であり、ノズルを手で持つことで並び替え、電源に接続し、吸い込むことで語る。』を見た。偶然、デモンストレーションの日でそれも見ることが出来た。

この二人が登場し、片方が小林耕平なんだけど、作品、ではなくて「兵器」(と何度も言い間違えていた、わざとかもしれないが)について語る、というか、説明、というか、レクチャーというか、時には討論になり、疑問の投げかけになり、しかし答えは宙づりになり、…やっぱりデモンストレーションとしか言いようがない。
伊藤亜紗によって書かれたテキスト、から、それら兵器は、発されている(作られているでもなく、非常に言いづらいのだけれど)。このテキストがまずすごくおもしろくて、もっと長いものが読みたくなってしまうくらいなんだけど、ここでは、まず1つの可能性として、生きたまま死ぬこと、が語られる。左右、を失うこと。分離すること、どちらかが判別できなくなること。
まさに、これって、鏡の「効能」じゃないか、と思ったわけで。たまたま007見た後に、この話を聴いたので。
デモンストレーションの中でも、『高地戦』とか『リング』とかの映画に触れていたりもした。
しかし、この最中になんどか笑いが起こっていた。言い淀み、すれ違い、一見して用途の不明なものたちについて説明する言葉は突拍子もなく響き、さながら、松本人志のコントのようになり、笑いが発生するのもいたしかたないのだけれど、少し違和感を感じた。それはなぜだろうか。
笑いとは、距離感、当事者性の欠如、なのだな、と思った。この場で放たれている問い、に、真摯に対応しようとすると、自らに引き受けようとすると、とても笑えなかった。それは感情移入なんだろうか?わからないけれど…。ただ、笑わないと息がつまりそうになったかもしれない。

また話は変わって。
カットを割る、ということはどういうことか。一つの目的として、効率化がある。例えば2人のキャストが、同時に撮影できない場合、切り返しショットでカットを使って、同じ場所にいるように見せかける。
そうした時、その空間、例えば両者の距離や、互いの描写、があいまいになる。というかわかりにくくなる。
わかりにくてもよいかもしれないが、さらに言ってしまえば、わかりにくいはずなのに、それがわかってしまうように仕向けてしまう。
また、『任侠ヘルパー』の話になってしまうけれど、終盤のシーンで、草なぎ剛が、焼け焦げたうみねこの家に入っていくと、そこで、品川徹演じる老人が一人で座っている、という場面がある。
その時、まずカメラは、少し引き気味で、彦一が入ってきて、老人に気付き、呼びかけ、連れ戻そうとする、というくだりまでを、寄らずに、カットも割らずに捉える。そして、帰ろうとしない老人に対する彦一の複雑な表情を、カットを割って映し出す。それは、老人からの視点に寄り添うようなカットだ。
まず、2人の人間の関係性や、そこで起こる物事、事件、空間、と構築したのちに、カットを割ってアップや切り返しを用いて、心情に迫っていく、そこを描写する。