ジョエル・コーエンイーサン・コーエントゥルー・グリット』DVDで見た。

広大な荒野での追跡において、追う者も追われる者も同一の地平にいるのは、間接的でなく直接的に見、攻撃しなければならないから。
1つには、追跡者は、その対象に認識されないように行動しているから(しなければならないから)、もう1つ、人間の視界の限界、つまり、一度に捉え、どこに誰がいるかを把握するにはあまりに「空き」がありすぎる、ゆえに、その同一化は、突然なされる。1発の銃声によって。この場合、音が、互いの存在を結び付けるのだけど、カメラは、両者を同じ画面に収めることで、その空間を可視化する。この1点を、カットで割ることの意味、を考えてしまう。
と、ここまで考えて思いついたのは、あの平野、山々、冷え冷えとする林、などが映画において主たる「もの」、である、としたとき、あの風景の中で、町のルールや制約とは異なる考えを持たなければならなくなった登場人物たちは、人間から別の何かへと変容したかのように思えてくる。死体を引きとりにきた先住民、熊の皮を見に纏う医者、動物の鳴きまねをする男、黄色い歯抜けの薄気味悪い無法者、濃い灰色で全身を統一した復讐相手のジョシュ・ブローリンマット・デイモンの不死身さ。(毎度毎度、思うことだけれど)ここに、うまく言葉にできない妙さがある。
その中で、歌を歌い、昔話をし、蛇除けの縄をまき、酒を飲み、同一性に近い何か、を保っていたのがジェフ・ブリッジス=コグバーン保安官。
では、マティはどうか? 彼女もどうやら、自己を保てなかったのかも、しれない。腕を失い(穴に落ちるというのもなにやら象徴的ではある)、(おそらくは一生)独身であり続けている。あのはつらつさ(「キスしてやりたくなるほどの寝顔」)はどこへ…。
それから、やはりつきまとうのは、埋葬。
それと、吊るしあげ、絞首。
…これについてはもっと考えなくちゃいけない。映画における死体の取り扱い、とは何か。埋葬とは何なのだろうか。
終盤の合成がちゃちい。おそらく別撮りしなければいけない事情があったんだろうけど、DVDでこれだから、劇場とかブルーレイだとさらに目立つのではという気がする。
タワレコで、5lack x Olive Oil買おうとしたけど、試聴してやめた。なんか…普通だったから/で、やばかっこよかったトロイ先生ことToro Y Moi『Anything In Return』と聴いたら痺れたジャケもシャレオツなSOLANGE『True』を買った/あと二木信『しくじるなよ、ルーディ』も/タルトタタンのライブ盤とか、空間現代の新譜とか、ほしいものもあったけど、ちょっと我慢してみた。近いうち買うけど/にしても、空間現代のポップに、「尖った音が好きな人はオススメ」的なことが書かれていて、いやぁ…ってなった/風邪っぽいので薬飲んでる/Bloc Partyのステッカーをもらった/ハリウッドの脚本家についてもっと考えたい。スティーヴン・ザイリアンアーロン・ソーキンエリック・ロス