柴山雅俊『解離性障害』読み終えた。
解離と、統合失調症。前者は、世界ではなく自分が変容している。後者は、自分ではなく世界が変容している。前者は、自分が悪い、自分の評価を貶めることに繋がる。後者は、世界が、周囲が悪い、周りの環境や人々が自分を追い詰め苦しめると感じる。
《ところが統合失調症の場合、ちょっとした些細な自分の行動や意志の動きに対して、いちいちコメントしてくる幻声であることが多い。それは解離のような一定の考えをもった人格的な声でなく、みずからの行為につきまとう、明確な意味を欠いた、断片化した声である。》(p152)
ここで、考え違いをしてはいけないのは、統合失調症は、徹底して、「自分」の問題に終始している、ということ。変貌し悪意のある世界から攻められている「自分」。他者から執拗に監視され、聞き耳を立てられている「自分」。
「自分」を追い詰める彼ら彼女らの目的は、「自分を追い詰めること」である。そこに、陰謀論とか、オカルティックな理由とか、適当なものを当てはめてしまっていたりする。
解離では、自己が揺らぎ、あいまいになってしまう。そこに他者が介入してくる。他者の影響を必要以上に受ける。他者たちの志向は、自分には把握できない。責められたり、励まされたり。他者は、実際に存在していたり(それは外傷を与えてくる者であったり、性愛欲求を満たしてくれる存在であったり、いろいろ)、想像上、であったり(Imaginary companion、グノーシス派の「配偶者(シュジュゴス)」)姿かたちもさまざまである。
《解離にとって変化したのは世界のほうではなく、あくまで、まず自分の精神/身体である。それゆえにこそ自分の記憶、自分の身体、自分の人格、さらには世界の自分にとっての現れ方が変容するのである。》(p144)
《(…)「空想や記憶、夢などといったさまざまな表象が質的差異を失って同質的な表象になる」》(p131)という、《表象の並列化》は、《遠近法的視点の成立の困難さを示唆している。つまり、そこでは「私」もまた同一性がゆらぎ、並列化しているとみてよいだろう。》(p134)
つまり、時間も、原因・結果も、自分と他者、も、入れ替わり、順序は前後し、というか、そういう一方向的な構造自体が崩壊していく。それは、つまり、《(…)聖性と魔性、男性と女性、告発者と被告発者、共同体における中心と辺縁は、あたかも愛と憎しみのように反転可能性を構造的にもっていた。ひとつのイマージュはつねに反転・対立するイマージュを含んでいるのだ。》(p136)、ということである。
まったく、前にも引用した、磯崎憲一郎『終の住処」の、《(…)妻の不機嫌とは、予め仕組まれた復讐なのだ。妻は俺に復讐するために結婚した、しかし復讐せねばならないだけの理由、つまり俺の浮気は、じっさいには結婚した後に起こった――この論理はあきらかにおかしい、因果関係が、時間の進行方向が反転している。しかし永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間で確実に起こることならば、ひとりの女といえどもそれを予め知ることが不可能だなどと誰がいえるだろうか?》(p63)、ということじゃないか。
しかし、これが異常で、我々からかけ離れたことなのか。いやそうではなくで、むしろ、我々は、以前は、この思考方法を持っていたのだ。これが、原始的、原初的なものなのだ。
《(…)「主観性をおびたもの」は本来無空間的であり、あらゆるところに存在しうる。人形や動物、動くおもちゃに限らず、本来いかなる物体も、花も、壁も。塵の一片さえも一種の主観をもったものとして、まずは映る。》(p102)という状態から、我々はスタートしている。
それはつまり、夢空間でもある。私、「主体」の拡散、私はここにもいてあそこにもいる、どれもが私でありうるし、私ではない。