ロブ=グリエ『覗くひと』読み終えた。
いま、ここは…と読んだときに思って栞を別で挟んでおいた場所を読み返したのだけれど、なんでそう思ったかわからなくなっていた。
…あー思い出した。
《カウンターのうしろには、ひっぱたかれた犬のように、しょげた顔の娘が、内側のドアの柱によりかかり、両手首を背中に、腰の窪みに組んでいる。マチアスは思わず眼に手をかざした。(…娘に部屋をかりたいと言い、案内されるマチアス…)化粧台の上のいくつかの壺、何本か、ややうしろにかたむいた小瓶の間に、クロームメッキの枠に写真がはさみこまれている。その真上の楕円形の鏡がふたたび映しだしている……マチアスは思わず手で眼をおおった。》(p184-185)
鏡が「ふたたび映しだし」たのは、こちらを正面に向いている娘の背後、「腰の窪み」だろうか。
なぜここにひっかかったのかと言えば、視覚を遮断する身振りを繰り返しているからだ。なぜだろうか。娘に対する自らの異常な欲望を抑制するためか?

ある物体、物質、事物のすさまじい描写のなかに、あるモチーフが紛れ込まされている。

それは、ある二つのものが在り、それらの距離は近いが、しかしそれらは本質的な関わりがない、ということである。

映画の広告の看板について。《(…)確実なところ、それは異なった風景を二重印刷したようであった。さまざまな色彩がほどこされた輪郭や緒部分は、初めの下絵にはなかったもののようである。といってそれらが第二の絵を構成しているということもできない。なぜなら両者のあいだにいかなる関係も見出だせないし、いかなる意味も判定できないからだ。要するに、それが真実の風景であるかどうか疑わしくなるくらい、荒野の起伏が交錯している。》(p179)

母と子供。《父はすぐ再婚し、小さなマチアスは叔母さんにあずけられ、実の子のように育てられた。新しい母親にも自然に可愛がられた子供は、ふたりの女のうちのどちらが自分の母親なのかまよったほどである。しかしほんとの母親は彼にはいないということを知るには、彼にとってもっと時がたたなければならなかった。》(p250)

切り抜きを燃やす火と焦げあと。《印刷された記事を端から端まで読み、そのなかから一語を選び、煙草の灰をおとした後、その火を新聞の切りぬきの選んだ場所に近づける。(…)煙草の火はついに紙片を焼き通し、円周が焦茶色の丸い穴を残す。/同じ注意、同じのろさで、マチアスはまえの穴から適度にはなれた箇所に、同じような二番目の穴をあける。ふたつの穴の円周のあいだには、やっと一ミリの黒ずんだ薄い境界しか残っていない。》(p257)

話者と語る内容。《(…)自分の話していることについて、いかなる重要性もあたえず、ただ話すために話しているようである。身を入れるということもない。黙るときは勝手に黙るだろう。》(p267)

というか、様々な事物が、どんなに「そのものとして」、この世界に存在していたとしても、それ以外の物とはなんら関係がない。
《ニッケル製の自転車は断崖の窪地の斜面に投げだされ、短い草の中にはっきりとうかびあがっている。装置は複雑だが、どの線も、いかなる混同、いかなる曖昧な部分とてなく、完全に純粋な線となっている。(…)マチアスはゆっくりと茶碗のなかのカフェ・オ・レの残りを飲んだ。》(p269)
《戸がわずかに開き、不愛想でもなく、不機嫌でもなく、信頼的でも軽蔑的でもなく、驚いたようですらない――なんの表情もない――女の顔が現われる。》(p274)

ワールド・ウォーZ』について。
ゾンビたちは映画である。音をたてたり騒いだりすれば、映画に気づかれ、スクリーン(扉、壁)を突破し、現実が侵食される。
フィクションはその内部において、人間の個としての、さらには種としての限界をも越えた(まさに人智の及ばぬ)事態を発生させることができ、それに人類は、多大なる犠牲を払いながら、各々の力を集結させて相対するという姿を描くことが可能になる。
KAIJUもまた、天災のような、人間の制御不可能な存在であるはずなのだけれど、それに対する解答として『パシフィック・リム』が提示するのは、イェーガーである。というとこなのかな、と思った(なにが?)。

にげたひつじ『Bitter Sweet Songs』買った。

Tyga『Careless World』入手したので聴いてる。
フューチャーされてる人だけでも、ファレル、ニッキー・ミナージュ、ロビン・シック、J・コール、バスタ・ライムスリル・ウェイン、T・ペイン、クリス・ブラウン、ナズ、とまぁ怒濤の人選。これだけでもちょっとイメージが違った。
わけわからん日本語のインタルード入っててびびった。
ラップは、決してテクニカルなわけではなさそう。若いって感じ。
トラックのセンスよし。ビート的にもおかしなのセレクトしてる。