ベン・ウィートリー『フリー・ファイヤー』


登場人物たちは、廃屋の中をちらばり、身を隠す。互いを目視で確実に認識できないので、乱発される銃はなかなか当たらない。だから致命傷が発生しづらい。
そもそも、当たったかどうか、相手にどれだけのダメージを与えたかもわからない。誰が生存し、誰が息絶えているのかもはっきりしない。
銃弾による負傷した彼らが地面をはいずりながら移動すれば、その姿は隠れる。
また、敵からの攻撃を防ぐ用途に使われる様々なガラクタは、決して銃弾ではなく、相手の視線をはねのけるために使われる。

こうして書き連ねていくと、作品内では、視覚の力が弱くなっていくのが、「観客」には「見て」とれる。

そして、自由に動くこともままならない彼らを導くものとして、音の存在が際立ってくる。
仲間同士の声での応答や、外部との繋がりを示す電話のベル。そして車から流れるジョン・デンバー

そのような空間で、(銃を相手へ差し向ける/相手から狙われる、という)視線の鋭敏さを失わない(見る/見られることへ意識を傾けている)者ほど、"生き残る"だろう。

だが、位置の不整列な、生死も曖昧な人物たちによる、密室での銃弾の乱撃の一幕が迎える、些かも欠点にはならない、わかりきった結末が示すのは、そうした映画としての「ルール」よりも強度を持つのは生命力の宿る肉体である、ということかもしれない(し、そうじゃないかもしれない…)。