最近見た映画。たまりすぎてるのでいけるところまで。

モルテン・ティルドゥムイミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

素晴らしい映画。秘密、秘匿、嘘、といったモチーフが何重にも絡み合い物語や登場人物を「駆動」させている。
秘密が新たな秘密を招き寄せ秘匿が別の秘匿を要請し嘘が連鎖する。という構造を史実から(エニグマ、暗号、情報戦、チューリング)見出し作品化してるの、芸術だ。
暗号というモチーフに人々のコミュニケーションそのものを絡め(人間のやり取りそのものが暗号に満ちていて解読が必要であるということ)チューリング自身の「生きずらさ」を描くという手法。
冒頭から印象的なのはチューリングの「待機」。取調室で、大佐の部屋で、空き巣に入られた自宅で、彼は、入り口に背を向け(刈り上げられ整えられたうなじの青み)、それが出来なければ目を瞑り、相手の到来を不意打ちのように、無防備に受け止めることを望むように居る。彼は「待つしかない」。ヒューとヘレンの駆け引きで生じるような戦略的な待機ではない。
学生時代、寄宿舎で休暇が終わるのを、親友の帰還を、「待つ」アランの元に届くのは望まぬ知らせであり、自らの手紙は宛先を失う。しかもそれは暗号であり(これが事実ならば戦慄するより他ない訳だが)解読相手がいなければ永遠にその意味を失う。そして、解読不能に陥った暗号を解くという行為自体がチューリングにとって二重の意味を持つ(解く側と解かれる側?)。
刈り上げられたうなじやもみあげの青さが、その後乱れていく前髪と対比される、というように髪型の演出も、当たり前だけどその当たり前がいかに貴重か。時代が流れボリュームを増し落ち着きを宿すジョーンのブロンド、いささかも揺るがないマーク・ストロング様(?)。
冒頭ベネさんのナレーション、途中で遮らず意見も言わず自分の話を最後まで聞くなら話そう(pay attention)という言葉、何かとてつもないことに触れている気がしてる。観客に対する表明、と受け取るだけでなくて、なにか…うまく言えないけれど。


ブルーレイでディーン・デュボア、クリス・サンダース『ヒックとドラゴン

はーめっちゃいい。完全なる動物ものになってた。人間よりドラゴンがかわいい! 当然のことながら飛行シーン、あと終盤の雲の中での戦闘とそれを下から人々が見てるときのフラッシュの描写がかっこよくてよかった。
メイキング見たらロジャー・ディーキンスを招いてアドバイス聞いてたので度肝抜かれた。確かに冒頭の夜のシーン、当然設定の関係上電灯などなくて炎や星の光だけで描いてるのすごいと思った。


ロブ・マーシャル『イントゥ・ザ・ウッズ』

ともかく歌で説明説明説明の嵐だった。最初の魔女のとこからすでにそれだったから、やば…と思った。パン屋の妻のソロ=森での「気づき」?も、「そうだ!それは…」みたいなのの連続。
本編中もその感じがあったけど(期せずして「母」「父」の位置にいてしまう)、そこからさらに進んで疑似家族に落ち着いてしまうのは面白いと思った。
疑似家族といいながらも、旧来の家族の役割は否定される。なぜなら、実母は不在だし、義理の母たち(シンデレラの継母、ラプンツェルの庇護者である魔女)は一貫して抑圧する存在にしかならない。だからラスト、あの二人は夫婦にはならないし、ジャックも赤ずきんも息子や娘にはならないだろう。
おとぎ話の登場人物である彼らには、その物語の中での役割しか与えられずその役割としての名前しかない(パン屋、赤ずきん、は言わずもがなだし、シンデレラやラプンツェル、も最早固有名詞でしかない)。
アナ・ケンドリックの胸の、息や歌に合わせて上下するのすごかった。あれが歌上手い人の身体の動きなのか。
バカ兄弟の熱唱シーンめちゃ笑いました。久々見たクリパさんが、若々しくない線を狙ってきてた(声の出し方や動きの厚み?とか)のさすがかと(弟いるし)。シンデレラのパート、完全笑かしにきてたのでは。あの逃亡三連続とか。
エミリー・ブラントが森から帰らされそうになって軽くすね気味になる時、かわいかったなー。好きだ‼︎という気持ちになった。


石川淳一『エイプリルフールズ』

冒頭から、殿の尻をとらえようとする工夫への熱意を感じてぐっときた。
ゲイとか、コミュニケーション障害?とか、ぼちぼちあかん扱いしてる風ではあるけれど、役者の力がうまく見せている。戸田恵梨香のクオリティの高さ、窪田正孝くんの美しさ・声の響き…やばかった。それに木南晴夏かわいかったし、小学生役の浜辺美波という方うますぎてかわいかった。あ、漠然と多分菜々緒の役は小池栄子だったんじゃなかろうかと思った。
なにより、戸田恵梨香の、最後の殿からの芋けんぴを、もらいに行く顔の動き、そしてそれを経てのキスシーンの動き、本人発信でも演出でもどちらでもすばらしい。
ともあれ、殿の役がかなり難易度高かった。全編に渡ってキャラクターが変化し続けてるから、相当演出も細かくやってかなきゃいけなかったんじゃないか。
気になったのは、終盤のレストランの怒涛の展開、菜々緒の叱責から始まるんだけど、なんというか、本来の脚本の狙いとは別の演出が加わっていて(もしくは汲み取れてなくて)ちょっと違うんじゃないかと。つまり強引な嘘によって事態を改善に導こうというもので、その開幕宣言を菜々緒が行うんだけど、それが最初、物語上「良い話」を無理やりつっこんでしまってるように、ミスリードしてしまってる。というのも主観に過ぎないといわれればそれまでだけど。
春の夜を背景にした男2人の静謐なカットを入れてきてるのいいとおもったし、あんま笑いを起こさないようにしてるのもよい。
キスシーンのつくりもそうだけど、あきらかに邦画でないものを参照してる。けどそれはなかなか…とは思う。
にしても、感動させるためのスローとか音楽だけのシーン、あってもいいけど2回やんなくてもいいし何より長すぎでは。


ショーン・レヴィナイト ミュージアム/エジプト王の秘密

信頼できるムービースターとして、トム、デンゼル先生に、ベン・スティラーも加えたくなった。
めっちゃよかった。アンブリン魂感じた。
オーウェン出てて、なんとお気に入りのダン・スティーヴンスも出ててうれしいよ。
印象的なのはplanという言葉。ラリーは始終計画を立てる(立てることを要請される)し、息子にもそれを要求する。


アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥバードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

最初にあれっと思ったのは音で、リーガンが楽屋から出て行く時、カメラ外で扉が閉まるのだけれど、その音を幾分わざとらしすぎるくらいの音量で聞かせていた時。そういう音の処理が気になっていたら(チャックを閉める時とか)、カメラが登場人物の視点になる時、ほぼ必ず、他の人物とのやりとりがあるし(サムと、後ろをついて行くマイクの会話や、最後舞台へ出て行くリーガンへ声をかけるスタッフ)、極め付けは終盤のタクシーの運転手の描写で、しかも料金を受け取って出て行く姿まで出さずにいられない。
となると、リーガンが一人きりの時しかある現象を起こさないようにしてるルールへの厳格さ(確かに、終盤のあるシーンではそうではないんだけど、それも前述のタクシーで帳消しにしてる。そしてそれが破られるタイミングも誰しもここだと思うところ)、時間経過の映像処理(空やネオン。確かに早回しのようでそうでないのおもしろいんだけど)なんかか全て、ある規則(それは長いカットを維持するためでもあるけど、決してそれだけではない)に従う「律儀さ」を示しているように思われて、その点において、全くマジック・リアリズムではないなと。
アンドレア・ライズボローの顔、というかメイクの違和感(パテで塗りたくったような…言い過ぎだけど)、と、マイケル・キートンの舞台上での演技でのエモーショナルな表情は、「固さ」を思わせる点で共通している(見てくうちに、これは主演男優賞はないな、ってなった)。
ナオミ・ワッツの、楽屋で泣きじゃくる顔の崩れ方、優しくされてsweetだと口にするその言い方、舞台上で何度も繰り返される浮気現場の演技と相まって、テンプレ感帯びてくるし、エドワード・ノートンの言動やキャラクターもまた愚直に、出鱈目な役者バカ、女たらし、ハリウッドvsブロードウェイの構図を持ち込む姿勢、を現し続けてる。
(すげーざっくりいうと、舞台より現実にひきずられてる、のキートンアンドレア、舞台に自らの欲望を支配されてる、のナオミとノートン、という組み合せで対になってる)
そして、サムとマイク(truth or dareゲームでのやり取り、「本当の君はそんなんじゃない」…さすがに自己ツッコミも入るけど)、リーガンとジェイクのやり取り(チケット売り切れてるよ!からの「じゃあやる」)、ローラとレスリーの慰め合いとアレ、リーガンと元妻(本当は…)、と二者の会話にこだわり、それ以上の人数になりかけるとそこから誰かが立ち去ってしまう(車椅子での来訪や、女優の楽屋を入れ替わり訪れる男二人)。ラストの病室で娘が来たのに出て行く母、と徹底してるし、何よりもそのやり取りの内容のデフォルトっぷりにはおどろく。
フリーキーさ(むちゃくちゃかっこいいドラムの劇伴やテロップの出方)が意図された時点で型にはまっていく。というかむしろ、その、装られた逸脱が実は定型や規律を欲する、というのが描かれてるんじゃないかと。それは表現側だけでなくて、受容する側もまた同じ。SNSで、動画サイトで、楽しむことしかできない。
実在の俳優や作品を持ち出していじり倒すのおもしろいし、実際、X-MENやらアベンジャーズやら羅列されるたりラストのスパイダーマンバンブルビーの登場を見ると、ほんと今の映画は狂ってるなとも思うんだけど、その狂気にも地盤があって、それとこの作品も相通じてる…という自覚。
まぁ確かに、アートとエンタメを拮抗させようとしてた。


ジェームズ・マーシュ博士と彼女のセオリー

冒頭から明示されてるけど、直進運動(ピンボール、クロッケー)と違い回転は止まらない。その契機となるのは上から下への動き(ベットから飛び降る艶かしい足、車椅子への最初の着席)。
カメラが中空を回転する。競い合う自転車。出会いのシーン、スティーヴンの視線を誘うように彼の周囲を回るジェーン。ダンスパーティで踊らない2人が柱を支えにくるくる動く、回転木馬。加速する列車。ペンローズが黒板に2つの円を描く。混ざっていくコーヒーとクリーム。水辺で手を繋いでぐるぐる回転するジェーンとスティーヴン。そしてもちろん車椅子。
もう1つ冒頭示されているのはぼやけた視界。スティーヴンが部屋から曇りガラス越しに見つめる外ではきびきびと闊歩する人々の姿。パブで彼の背後をすすけたガラス越しに動くジェーン。そして常によごれている眼鏡(繰り返される拭き取る仕草。)
ジェーンとスティーヴンが初めて向き合うのはダンスパーティのキスシーンで、その前は横並び、階段で上下、座るジェーンと立つスティーヴン、テーブル越しでしかも斜め、と正面の向き合いを回避してる。
そういう意味でこの映画は車椅子に乗るまで、ということなんだろうか。その後、史実に縛られたように窮屈な展開だと感じた。
フェリシティ・ジョーンズのおでこが気になった。どのタイミングで真ん中分けの髪型になったのか、それ以降出続ける。


ジェームズ・ワンワイルド・スピード SKY MISSION

最後、なんなんだあの怒涛のたたみかけは…ずるすぎるし、冒頭のめちゃくちゃかっこいい構図でとらえられている墓地(白い靄まであったような…)やあるはずのない墓石、「もう葬式には出たくない」という言葉、など、死のイメージを濃厚に漂わせている。
ステイサムがここにも!あそこにも!!みたいな。
菊地さんは今作について何か書いたら良いのでは。イギー・アゼリアも出てるし。
しかし観終わった後、ドムに敬意を表してずっとコロナ飲んでた。


ポール・トーマス・アンダーソンインヒアレント・ヴァイス

合衆国、連邦政府の支配、を表象するものとしての不動産と賃貸制度、の絶対的な力は、仇なす者たちを駆逐していく。その方法は醜悪、そして入り組んでいるがゆえに把握不可能、途方もなく一見あり得なそうなゆえに(ドラッグの売買と治療の永久機関)、陰謀論と絡み合い見分けがつかなくなる。「ヒッピーの戯言」のように。
そして、ブラックパンサーナチス、ドラッグカルテル、自警団、そしてヒッピーたちは、異なる方向からそれぞれ国と立ち位置を違えつつしかし取り込まれ飼われる(警察子飼いの殺し屋、たれこみ屋)。正義(Department of Justice)の名の下に。
つまりわかりやすすぎるくらいまごう事なき反米映画で、それは無論ピンチョンでもあり、『ザ・マスター』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の監督の要素でもある。
おそらく一度だけハリウッドという単語が発せられる。反共に転向した映画スターのエピソード(及び病院の劇場でセリフを暗唱する医者)。ビッグフットの副業としてのテレビ出演(それは作品ではなくて「CM」と「エキストラ」)。…まぁ、メディアにまつわる描写はピンチョンなんだろうけど。
そしてやはり、洗脳というモチーフは重要だ。さらにドラッグ、精神疾患。ラストのビッグフットの無精髭を生やし憔悴した姿(妻にセラピーについてなじられている)を思い起こす。
撮影は、勿論ロバート・エルスウィットだけど、あのカメラワークはなんなんだ。冒頭の民家の間から見える海のカットからよくわからない窮屈さ(しかしそれが「借家の風景」だと言われればそうなのかもしれないけど)。顔に次ぐ顔、会話の長回しに動きはなくただカメラが近づいて、しかも微かに揺れ続けてる。意図的に「きまってない」構図を選んでるような(ホアキンの何度目かの自宅での電話のシーン、無意味にテレビの裏?が右側に入っててわけわからない)。ラストカットの、まるでただ回したかのような男と女の画。うわっと思ったのは、雨の空き地と数年後の「黄金の牙」ビル、の編集で、単純にどっちが合成なのかわからなかった。
気になったのは顔を見せない構図。ビッグフットの奥さんとか(結局最後まで見えない)。他にもあったような気がするのだけど忘れた、でも、人物を出す時顔をフレーム外にするというの何度かあったかと。
フレーム外からの攻撃(鈍器、頭を叩く、平手打ち)は、加害者と被害者を分断する(とはいえ、お巡りさんによる突き飛ばし(likeゾディアックのRDJ)はきっちり見せてるが)。最たるものは唯一の銃撃戦で(戦、とはいえ一方的だけど)、かなり難しい狭い階段を舞台としてるんだけど、それをそのまんま使ってて、じゃあそもそもなんでここにしたの、という感じだし、語る言葉は多く、専ら会話のシーン、ナレーション使用、という困難さ(とは少なくとも思ってるはず…)に挑んでて、それを解決するというよりその難しさをそのまま出してるという印象。
例えば、ドクが監禁から逃げるシーン、ホアキンの身体能力すげーとなるけどすぐにカットが割れてあの紙片を映す、そういう「意味ありげ」なものにひっぱられてる映画。
しかし依頼(人)が多重化しずれにずれて帰結するのがある家族の再生(そしてそれは探偵の利益とは関係ない)というの最高だと思う(原作読んでなかったけどここまでチャンドラーだとは)。
女優のセレクトに細心の注意をはらってる印象。男はいい面を選べば必然的に問題ないけど(ホアキン、ジョシュ、デルトロ、オーウェン、そしてエリック・ロバーツというまるで問題無しの面子)、時代とリアリティーに関して女性はそうじゃないということか。
あと、LAPDをglass houseと呼ぶの知らなくてグッときた。
それにしてもエンドロールラストのFor…の部分。あれがPSHじゃないっての、ちょっと信じられない。


山崎貴寄生獣 完結編』

すばらしい。前編に引き続き、原作改変が制作都合上である以上にその箇所を映像的に機能させるためのものだ(後藤との結末について。放り投げる・落下するモチーフ)
寄生生物たちの出自と目的についての改変と解釈が前後編ともに加えられていてそれを説教じみてるということもできるけど、ラストの浦上の登場の岩明均的唐突さをやや解消し別の物語を提示する為だとわかる。
冒頭の、フロントガラス越しの浦上のカットからただならぬ気合感じた。照明、内部の見え具合のこだわり。そこからの編集のテンポもよいし、取調室(と一先ず言っておく)の暗さもぐっときた。そして何よりマジックミラーで相対する浦上と新一のシーン!(それとと田宮の部屋での、視線と可視の多重化…見る側と見られる側、映り込みと背景、を同時に見せるのよかった)
カメラを見つめるガラス越しの染谷将太の目の尋常じゃない迫力(という凡庸な言い方しか思いつかないのが申し訳ない)。そして空気を震えさせる音響、からのタイトルバック。前編のタイトル前があの捕食シーンだったことを考えると今回はまさしくそれに相応な強烈シーンだった。
市庁舎の寄生生物たちの隠れ家の折り返しのある階段、田宮の住む巨大な団地、の奇妙なまでに広さを持つ空間及び建築物(それは人間と彼らのパーソナルスペースへの認識の違いなのかもしれないが)、の撮り方が、その異常性・寒々しさを強めているのに対して、新一や倉森の住居の狭苦しさ、物の配置の仕方、が、これが人間のリアリティと言わんばかりに、生活の様子が見え取れるように、これらの空間をとらえている(だからこそ、外壁の焼け焦げた古い集合住宅を見て我々は胸がつまる)。
執拗なまでに全体をおさめるカットを撮って上下左右に広がる空間と人物の位置関係をしっかりとらえた動物園と比べるとおそらくほぼ合成の処理場はあいまいになってる(見つめる里美の登場も些か唐突の感ある)。思えば動物園、市庁舎、山間の道路、焼却炉、ラストの屋上、と、見下ろす行為とカットが頻出してる
あと、終盤の別れが起こる新一の部屋、警察署の暗さと差し込む外光の感じが一定のトーンで作られている。
どこかの雑誌のインタビューで山崎監督が、血を沢山出したからほめられた、的なこといってたけどそれは矮小化だと思う(まー今回のインタビューでも中々表面的なことしかしゃべってないからこの発言もあえてなんだろうけど)。無論そこから逃げてないこともよいが、何よりまず前述のような映像設計や演出がきちんとなされてるのが良いからだと思う。
田宮が読んでたの、多分ブルーバックスのこれ(http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=257799)だと思ったんだけどどうだろうか。


ここまでだな今日は…。