スパイク・リー『ブラック・クランズマン』

サスペンスの盛り上げ方、アンチクライマックス、明らかにタランティーノの手法、センスが使われている。

最初は「俺の方がもっと上手くやるし、ブラックスプロイテーションとかも俺の方が使うべきだろ!」みたいなことなのか、と思っていたが、これについては、むしろ、上手くやる、じゃなくて、上手くやっちゃダメだろ、そこを面白くしちゃダメだろ、ってことなのかな、と気づいた。

スパイク・リーが感じるタランティーノのよくないところをふまえ(おもしろくさせすぎるところ?)「修正」しかつタランティーノのセンスとマナーに(憧れて?)則って作った(もともと近しい所とあったような気もする)。かなりねじれてるなーと。

どうして面白くしちゃダメなのか?ハラハラさせちゃダメなのか?について、本作では決定的なシーンを描くことで示している。ポップコーンムービーの恐ろしさ。

煽って煽って、(エンターテインする手段としての)カットバックに次ぐカットバックをして、「映画はおそろしい」!!!…この『國民の創生』のシーンのねじれ具合が凄まじいというか、ゾッとした。娯楽性の否定、虚構によるリアルへの悪影響(としか言いようがない描き方)、しかしそれを娯楽としての映画で描くというアンビバレンツ。

後半から終盤の、潜入捜査物定番のサスペンス、そしてバレてしまってからの展開、の、引っかかりなく片付けた感じは、史実に敬意を表し、映画自体の主張に寄った結果ということもあるし、あえて狙ったうまくいってなさ(誤解を恐れずいうなら「おもしろくなさ」)であるようにも思える。そして、『スノーデン』とか『15時17分、パリ行き』にも通ずる、振り切った節度のない終わり方も。

なお、本作のアダム・ドライバーは、今までの、どこにいても居心地が悪そう、馴染んでなさそうな姿とは異なる、どこでもうまくやっていけるようなソツのなさがあるタイプの人間を演じてる。それは少し珍しい。

 

《映画は黙殺の汚辱の闇に捨てられていたことどもをその闇から救い出し、目に見えるものとして記録する。(…)そしてしかし、キャメラはそのことによって逆にあらゆるものを監視する視線に酷似して行く。(…)「忘れられた人々」に差し向けられた眼差しが監視と簒奪の眼差しに似てしまうことを如何に回避するか(…)忘却の闇から抜け出して来た喜びの中に残留する汚辱の残り香のようなものがうっすらと彼らの皮膚を覆い、そしてまたそこに別の汚辱、写され視線に晒されてしまったものの汚辱が覆いかぶさることになる。この二重の汚辱を如何にして回避することが出来るのか?或いはこの二重の意味汚辱の厚みのない狭間をすり抜けて真の意味での解放のドキュメントとなることは映画に可能であるのか?(…)撮影されなければ一切の記憶に刻まれることなく消えていってしまったに違いない一つの死を記録すること(…)しかし、その死体に向けられたカメラのほんのちょっとした移動撮影の身振りが、一つの死に対する許しがたい侮蔑となってしまうことにもなる(…)》(丹生谷貴史「死者の汚辱」[『ドゥルーズ・映画・フーコー』]p247-248)