坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』とフランコ・ベラルディ(ビフォ)『NO FUTURE ノーフューチャー イタリア・アウトノミア運動史』(こんなん買うしかないよなぁ)買った。
で、ようやく、デヴィット・フィンチャーソーシャル・ネットワーク』見た。

まとめることができないのだけどとりあえず。

マークとエドゥアルド二人の前途を切り開くことになるアルゴリズムは窓に書かれた。
二つの訴訟の中で、彼らは、それぞれ窓を見つめる。
そこから見える空は曇天で、雨も降る。
カリフォルニアの一軒家での、フェイスブック利用者増加を祝う、どんちゃん騒ぎを、マークはひとり、プールサイドでエドゥアルドと会話しながら、大きな窓越しに見つめる。
彼らはそこで友情を確かめ合うように会話をする。

その時のマークは、すでに、腹いせに預金を凍結したエドゥアルドを切り捨てることを考えていたのだろうか。
その後の二人の決裂のシーンのマークの発言は、自分が決して、友情を犠牲にするつもりがなかったことを示す。
がしかし、それは、信じるにはあまりに不安定すぎる。それを聞くショーンのリアクションを加味しても。
史実をもとにしつつも、いや、だからこそ、徹底的にこの映画は、決定的な判断や行動をあいまいにする。

弁護士を交えた現在時制の会話が挿入されながら、フェイスブックの「歴史」が語られていく。
その過程でいくつかの、前述のあいまいさが顔を出し(動物虐待、ショーンの失墜)、それは、その過去の時点においても、現在の原告・被告の話し合いの中でも、検証されようとするのだけど、不穏な雰囲気を残すだけで結論は出ない。
しかしそもそも、この2つの語りの流れに、主従はあるのだろうか。仮に、現在に軸足を置いた場合、過去の回想と「見られる」映像はにわかに信頼のおけないものに変わる。それは、「誰の」回想なのか、イメージなのか、ということ。

そうしたことからも言えるのだけど、この映画はある種古典的物語だ。
既存の感覚をもつ人々と、新しい人間、の対立、の構造は、あらゆるところに立ち現われてくる。
もちろんエドゥアルドとマーク(非常に相似性があるショーン)がその代表格なわけだが。
そして、ここが重要なのだけど、マークやショーンの新しい「病」も、もはや今となっては新しくはない。
理解の範疇にある。そのうえで、ぞっとするのはぞっとするのだけど(あの落書き!、無意味で無内容な計算・質問・単語の繰り返し、常に自らの説明を優先させる姿勢、誇大妄想や嘘)。
何というか、この映画のマーク・ザッカバーグは、新しくというよりは圧倒的に、物心が付いていない、という感じがする(その点で彼は、ショーンともすれ違う…それを新しさと言えるのかもしれない…)。非常に歪んで育ったオトナコドモ。文脈を理解する際に、自分のサイズでしか理解しないのだけど、そのサイズもまた、規格からかけ離れているので、
2重3重にバイアスがかかって現実を生きている。歩き方のや、立ち姿の、不自然さ…あえて、子供のようだ、と言い切ってしまおうか。
女性に対する言動において特にわかりやすくでてくる(ビール投げの極端さ!、誘う時のおかしさ)。というか、何よりこの映画が、女性の拒絶に始まり、(一応の)受諾に終わるのだった。ここで、回想が現在に接続される。

以下つらつらと。

冒頭のかみ合わない不愉快な会話のシーンからそうなのだけど、背景にいる人物たちがかなり計算された配置に収まっているように感じた。店を飛び出したマークが、寮に戻るまでの道筋で、人々の間をすり抜けていくんだけど、奇妙なのは、このモブの人間たちが皆、黒い服を着ているところにあると思う。
ファッションに関して言えば、たとえばマークの、GAPのグレーのスウェット、パタゴニアのフリース、ノースフェイスのコート。ショーンは、かっちりとした格好のエドゥアルドに対してはっきりと、ダサいと言い切ってしまう。(「完成しない」ものとしての…)ファッションにより表面化する価値観の対立というのもまた古典的だ。

CGの使い方の独特さ。双子や、雪と白い息。映像美的には相変わらず冴えわたっている。ボート大会のピントのわけのわからなさ(本城直季のような)も印象的。ああいうイベントのほうがむしろ現代においては、非現実的、ということか。もちろん、音に関しては、呼吸音やキータッチの音、など。
そもそも、ウィンクルボス兄弟も妙だった。特徴的に響く声。訴訟を決意して喜び合うシーンのあほらしさ。

そして恒例の無意味?にサスペンスフルなシーン。エドゥアルドの彼女がカギを開ける時。