フラナリー・オコナー『賢い血』を昨日読み終えた、んだけど、ジャン・ルノワール『ジョルジュ大尉の手帳』を読み終わった感動が…人物たちが、それぞれの容姿やまつわるエピソードをはっきりと(決して思わせぶりな雰囲気だけ、なのではなく)描くことで、ほんとうに生き生きと表現されている。ジョルジュの幼少の頃から始まって、ナンシー、母親、ジルベルト、リュシー、アニェス、その他、娼婦宿の女将やマルジェラン夫人など、関わるあらゆる女性が特徴豊かに、もちろん父親や騎兵隊の面々、「殴りつけてやりたくなる馬鹿者」のエミリヤンといった男性たちも同じく、それぞれの魅力や「性格」を持って、登場してくる。そして、真に性格的な人物、究極の「単純」さを持つ女性アニェス。彼女の強情さに読者は動揺し、「なんでだよ!」とつっこまずにはいられない一方で、彼女の今現在生きている世界、聖人と神の世界を知れば、納得してしまう(だから彼女は、なんというか、女性、というより、女性性そのものである…娼婦で聖なる女性、っていういわゆる男が喜びそうな存在、じゃねーというか、そう読んだらつまんない、というか…)
…というか、この物語が悲恋にまつわるものははなっから説明されてるし、結末は読者も知る所にあるのだから、納得もくそもないんだ、本当は。ただ、そこに至ることが目的じゃなく(読み終わることが目的じゃなく)いかに至るか、いや至るかじゃなく、いかに行くか、にひたすら身を任せること(だからこそ結末を知りつつはらはらして、心をゆさぶられ続けていられる)が重要なわけで、だからこそ、一つ一つの、細かな、作中の言葉を使えば、物語(≒記憶)の「雑多な事柄のための場所」(「過ぎ去った恋を収めておく場所」)にひそむものをとらえていけるし、いくべきなんだろう。
この小説は、現在時からの回想により描かれているので、当然記憶にまつわる小説になっている。だからこそ、小説の細部の豊かさは、記憶の細部の豊かさへの賛美に、そのままなりうる。
そして、この物語が、他者の手によって作品化させられた、という経緯が、人間と人間が出会うことのすばらしさや複雑さ(ジョルジュとハートレーが出会わなければ手帳は作品とならなかった(他者(ここではハートレー)に読まれなかった)し、読者をジョルジュの人生の書かれなかった部分へといざなわなかっただろうし、ラストへもつながらなかっただろうし…というある種の幸福な(いやもちろん、作為なんだけどしかし)偶然)を示している。そしてそれは、作品全体にわたって存在する。

《「何を考えているんだ」というのは何ともおぞましい、失礼にもほどがある質問だ。(…)そこには皮肉の影と、そして非難とが見て取れた。人には逃げ出す権利などない、眼前の人物から逃れ、そこにはいない誰かの肩にもたれてひととき安らぐ権利などないとでも言いたげである。》p125
《「そりゃそうだけど、問題が別よ。あたしはあの人たちの身の上話を全部知ってたし、向こうもこっちの話を知ってた。だからおしゃべりをすると言ったって、何か話があるわけじゃなくて、お互いの声を聞くためだったのよ。」》p163
《「あんたの恋人は元気?」彼女は、まるで「コーヒーに角砂糖は二つ?」とでもいうように尋ねた。》p183《砲弾の雨あられの中、まるで平和な時に中庭を渡るのと変わらない平然とした足取りで、杖をつきながら陣地を渡っていく大尉の姿を、お前さんにも見せたかったよ。》p263《彼は田舎司祭らしい現実的な口調で、私に祈るように言った。それはあたかも、「お腹が空いたでしょう、一口お食べなさい!」とでもいうような調子だった。》p301
映画を見る時、登場人物が「何を考えているんだ」と考えながら見る。俳優は、何かを考えているように演ずる。そしてその何かは、「山ほど考え事」がある時の、その思考の豊穣さとはまるで違う。彼らは親密な関係を表現する時でさえ、相手の(何よりも脚本によってだが)「身の上話を知って」いて、「向こうもこっちの話を知って」いるにも関わらず「お互いの声」も聞かずに会話する(我々は、普段、内容もさることながら声も聞いている…その調子、抑揚…ジョルジュは、兵士たちの、その出身地それぞれの訛りや、アニェスの田舎風の訛りにこだわり続ける)。そして彼らはおそらく、「砲弾の雨あられの中」を、「砲弾の雨あられの中」を行くように、行くのだろう。まるでそれが当たり前と言わんばかりに。
間に挿入される「昔の手帳から」の記述はどれもいい。《―カルメンが里子に出してある息子の写真を受け取った。みんなでうっとりと眺める。》p140(後にアニェスが自らのお金を「里子に出した子」にやるよう言う時、我々はこのカルメンを思い出す)
そして、アニェスと読書についての記述もすばらしい。たとえアニェスが、だめな読書であっても…